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仁田尾博幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仁田尾 博幸
名前
カタカナ ニタオ ヒロユキ
ラテン文字 NITAO Hiroyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1973-11-27) 1973年11月27日(50歳)
出身地 鹿児島県
身長 181cm[1]
体重 77kg[1]
選手情報
ポジション GK
ユース
1989-1991 日本の旗 鹿児島実業高校
1992-1995 日本の旗 福岡大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996 日本の旗 横浜フリューゲルス 0 (0)
1996 日本の旗 ジェフユナイテッド市原 0 (0)
1997-1998 日本の旗 横浜フリューゲルス 0 (0)
1999 日本の旗 京都パープルサンガ 0 (0)
1999 日本の旗 FC東京 0 (0)
2000-2003 日本の旗 京セラ川内
通算 0 (0)
監督歴
2007- 日本の旗 鳳凰高校
獲得メダル
ユニバーシアード
1995 福岡 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

仁田尾 博幸(にたお ひろゆき、1973年11月27日 - )は鹿児島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー(GK)。 

来歴

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1989年、鹿児島実業高校に入学。2年次に出場した全国高校選手権では大会を通して好セーブを連発し、準決勝武南戦のPK戦では相手の3人目までのキッカーを全員止めて鹿実高初の決勝進出及び準優勝に貢献[2]。同期には前園真聖藤山竜仁らがいた。1992年福岡大学へ進学し、4年次の1995年にはユニバーシアードに参加[3]掛川誠とポジションを争った[4]

1996年横浜フリューゲルスへ入団。しかしレギュラーには加われず、同年中にジェフ市原へ移籍。1998年には横浜Fの解散と天皇杯優勝を経験した。1999年京都パープルサンガへ移籍。

1999年8月、J2・FC東京は、正GKの堀池洋充が負傷離脱しGK確保に迫られていたため、3ヶ月の契約で仁田尾を補強した[5]。プロ入り以来公式戦での出場機会が無かった仁田尾にとっては、最後のチャンスのつもりで東京に移籍してきたが[6]、既に堀池に代わる正GKには鈴木敬之が定着していた。10月に入ってチームは不調に陥ったが、横浜Fでの経験からチームの一体感を高める重要性を実感していた仁田尾は、率先してムードメーカー役となり、選手やサポーターを鼓舞[6]。J2最終節を前に契約満了を迎え退団したが、仁田尾の加入はこの年のFC東京にとって大きなポイントとなっていた[5]

11月、京都に復帰。この年限りでプロサッカー選手としてのキャリアを終えた[1]。その後は地元鹿児島県に戻り、京セラの鹿児島川内工場に勤務[1]京セラ川内サッカー部でのプレーを続けた[5]

その後は鳳凰高等学校男子サッカー部監督を務めている。

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1996 横浜F - J 0 0 0 0
市原 0 0 0 0
1997 横浜F 16 0 0 0 0
1998 20 0 0 0 0
1999 京都 12 J1 0 0 0 0 - 0 0
FC東京 32 J2 0 0 0 0 - 0 0
京都 12 J1 0 0 -
2000 川内 九州 - -
2001 - -
2002 - -
2003 1 - -
通算 日本 J1
日本 J2 0 0 0 0 - 0 0
日本 九州
総通算

代表・選抜歴

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タイトル

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指導歴

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脚注

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  1. ^ a b c d e 仁田尾、南、石間3選手 進路決まる 京都新聞 (2000年1月18日)
  2. ^ 『高校サッカー 伝説の名勝負&プレイヤー列伝』カンゼン、2005年、70-72頁。 
  3. ^ 選手名簿 サッカー代表チーム 第18回ユニバーシアード大会1995
  4. ^ 競技結果・サッカー(試合番号:48) 決勝 第18回ユニバーシアード大会1995
  5. ^ a b c 荒川裕治『FC東京の挑戦』小学館、2001年、34-35頁。 
  6. ^ a b 荒川裕治『FC東京の挑戦』小学館、2001年、39-40頁。 

関連項目

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外部リンク

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