コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

仁木高長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
仁木高長
時代 室町時代後期
生誕 文明14年(1482年
死没 不明
改名 千代菊丸→次郎四郎→高長
官位 右馬助→右馬頭
幕府 室町幕府
主君 足利義稙
氏族 仁木氏
父母 仁木貞長
徳大寺実淳の娘?
晴国晴定
養子:義政[注釈 1]
テンプレートを表示

仁木 高長(につき たかなが)は、室町時代後期の武将[1]

概要

[編集]

伺事記録』には、延徳2年(1490年)閏8月18日に仁木右馬助(貞長)の子・千代菊丸の名前が見える。父は鈎の陣で討死しているため、千代菊丸は当時5歳で家督を相続した[1]

長興宿禰記』延徳3年(1491年)8月22日条によると、9歳で第二次六角征伐に従軍している[1]

文亀3年(1503年)12月18日付けの「東福寺文書」によれば、仁木次郎四郎高長が京都六角の家屋を横領している[1]

後法成寺関白記永正4年(1507年)12月29日条によると、この日に「(近衛尚通)の北方妹」が高長に嫁いでいる。尚通の北の方正室)は徳大寺実淳の娘(維子)であるため、高長の妻も実淳の娘であると考えられる[1]

『後法成寺関白記』永正8年(1511年)8月16日条によれば、足利義稙に同行して丹波国に下向し、その後船岡山合戦に参戦している。また、同年10月21日以降は右馬助の名前が見えるようになり、高長が右馬助に任官されたことがわかる[1]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 六角氏綱の子

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 稲本紀昭「伊賀国守護と仁木氏」三重大学教育学部編『三重大学教育学部研究紀要』38号(三重大学教育学部、1987年)