京極杜藻
京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月1日 - 昭和60年(1985年)11月7日[1])は、日本の俳人、実業家。元京極運輸商事会長。旧姓桶谷。本名友助。
経歴
[編集]鳥取県米子市尾高町出身。家業は食料品商[2]。桶谷庄蔵の次男[3]。
大正2年(1913年)3月米子中学(現在の米子東高校)卒業。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進んだ。大正3年(1914年)同級の京極山琅子などと学校内に俳句会“南琴吟社”を創立、喝鞭と号し、“ホトトギス”に投句して、初めて雑詠に二句入選する。大正4年(1915年)2月はじめて“ホトトギス”句会に出席し高浜虚子に会う。
大正6年(1917年)3月東京高商卒業。久原鉱業に入社したが、京極山琅子が急死したため、翌年久原を退社、山琅子の京極家を継ぐ。京極家は、旧旗本の出で、家業は労務請負運送業だった。
大正9年(1920年)運送に初めてトラック使用。大正12年(1923年)俳号を杜藻に改める。昭和10年(1935年)第一句集『艸冠』発刊。昭和16年(1941年)京極運送株式会社を設立、社長となる。昭和17年(1942年)文学報国会俳句部会の役員となる。昭和19年(1944年)京橋運送株式会社を設立、社長となる。
昭和26年(1951年)東京港運事業協同組合を結成、理事長となる。昭和29年(1954年)東京トラック協会会長、日本トラック協会副会長に就任。
昭和30年(1955年)第二句集『門』発刊。昭和34年(1959年)晴海荷役株式会社を設立、取締役会長となる。昭和35年(1960年)運輸大臣表彰。昭和36年(1961年)京浜麦酒運輸株式会社、鋼管ドラム株式会社をそれぞれ設立、社長となる。藍綬褒章受章。昭和38年(1963年)京極興業株式会社を設立、社長となる。昭和39年(1964年)社名を京極運輸商事株式会社と改める。
昭和40年(1965年)秋勲四等瑞宝章受章。昭和48年(1973年)第三句集『眉雪』発刊。
家族 親族
[編集]『第廿一版 人事興信録 上』によれば、
- 妻・美喜(東京、徳岡祐三郎の長女)
- 長女・都子(日本舞踊家、芸名・西川鯉也)
- 大正14年(1925年)5月生~
- 次女
参考文献
[編集]- 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 カ・キ…332-キ…333頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年、241-248頁)