井川忠雄
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井川 忠雄 いかわ ただお | |
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生年月日 | 1893年2月15日 |
出生地 | 日本 島根県 |
没年月日 | 1947年2月18日(54歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
前職 |
大蔵省官僚 産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事 |
所属政党 |
(日本協同党→) 協同民主党 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1946年6月19日 - 1947年2月18日 |
井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – 1947年2月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。太平洋戦争開戦前、日米民間人交渉に携わった人物として知られる。
来歴
[編集]島根県出身。(旧制)仙台一中、一高、1917年東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。東京税務監督局兼理財局属[1]。近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。1936年、門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。
1940年、ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のジェームズ・E・ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。その後1942年に共栄火災海上保険社長に就任する。
戦後は黒沢酉蔵、船田中とともに日本協同党を結成し、1946年に小党を加えて協同民主党が発足すると書記長に就任した。同年には貴族院議員に勅選されるも、在任中に死去。墓所は多磨霊園。
略歴
[編集]- 1916年10月 – 高等文官試験合格
- 1917年
- 3月 – 東京帝国大学法科大学政治科卒業
- 4月 – 大蔵省入省
- 9月 – 財務書記・中国駐在
- 1919年1月 – ロシア駐在(シベリア派遣軍政部付)
- 1920年
- 9月 – 副司税官・淀橋税務署長
- 9月 – 司税官
- 11月 – 大蔵事務官・米国駐在
- 1927年
- 7月 – 銀行検査官
- 7月-同年11月 – 欧米出張
- 1929年9月 – 産業組合中央金庫監理官を兼任
- 1933年5月 – 大蔵書記官・外国為替管理部審査課長
- 1936年
- 4月 – 門司税関長
- 10月 – 退官
- 10月 - 1941年5月 – 産業組合中央金庫理事
- 1938年12月 – 同大阪支所長
- 1940年7月 – 同本部業務部長
- 1941年2月-同年8月 – 外務省嘱託
- 1942年
- 4月 – 大東海上火災保険(株)取締役社長・大福海上火災保険(株)取締役社長に就任
- 7月 - 両社合併・共栄火災海上保険(株)社長に就任
- 1946年6月19日[2] - 1947年2月18日 – 貴族院議員
脚注
[編集]外部リンク
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