井伊行直
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 延慶2年(1309年)[1]? |
死没 | 正平3年/文和3年(1354年)[2]? 応永11年(1404年)[1]? |
別名 | 井介 |
戒名 | 決道圓定大居士[3] |
墓所 | 龍潭寺 (浜松市)[3] |
主君 | 宗良親王[1] |
氏族 | 井伊氏 |
父母 | 父:井伊泰直[1] |
子 | 景直[1] |
井伊 行直(いい ゆきなお[4])は、鎌倉時代末期 - 南北朝時代の武将。宗良親王に仕える[1]。遠江国の城主[1]。井伊氏当主[1]。井伊泰直の子[1]。子孫に井伊直平・井伊直政・井伊直弼など。
生涯
[編集]14世紀前期、井伊氏の城主・井伊泰直の子として生まれる[1]。後醍醐天皇と信頼が深い西園寺公重が遠江国浜松荘の領家職であることや、都田御厨が南朝の公卿である洞院実世の支配地であり、全体的に南朝側の荘園・御厨が多数見られ、伊勢神宮との関わりが深いこともあり、行直は南朝側につく[1][5][6]。このような土地に注目した後醍醐天皇が、足場を築くため、息子である尊澄法親王をその土地に送り込んだ[1][5]。建武4年/延元2年(1337年)春には尊澄法親王が還俗、宗良親王となった[5]。
建武4年/延元2年(1337年)7月4日に、井伊谷南部の三方ケ原にて、三和光継・松井助宗・横地治部丞・朝夷彦五郎を従えた北朝側の武将・今川範国と戦う[1][5][6]。行直はこの戦いで敗れたと見られる[5][6]。しかし、同年7月6日[注釈 1]、今川範国により井伊氏の主要な城・三岳城に攻められたが、今川軍を撤退させた[5][6]。今川軍を撤退させた直後に、宗良親王が三岳城に入城する[注釈 2]。宗良親王を受け入れた行直は、本拠地の三岳城の防衛を強固にし、取り巻くように大平城、千頭ヶ峯城、鴨江城、天山城をそれぞれ東西南北に設けた[5]。
一方で、暦応2年/延元4年(1339年)7月22日、北朝側の高師泰が、攻め込むために大平城へ進んでいき、行直はかろうじて維持できたものの、7月26日、鴨江城は高師兼に攻落された[1][6]。その直後に後醍醐天皇は崩御し、南朝側は不利になっていく[1]。同年10月31日、千頭ヶ峯城が落とされる[1][5][6]。翌暦応3年/延元5年[注釈 3](1340年)1月30日、三岳城が落ち、同年8月24日には、大平城が仁木義長により落城[1]。行直は降伏する[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 楠戸氏によると、23日に侵攻したという記録もある。
- ^ 『井伊一族のすべて』によると、合戦前または後に入城したと諸説があり、小和田哲男は後にあったと主張している。
- ^ 延元から興国に改元したのは4月28日。