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井上時利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井上時利
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄9年(1566年)または永禄2年(1559年
死没 慶長20年5月6日1615年6月2日
別名 定利[1]、利定[2]、通称:小左衛門[3]
戒名 法朴または宗了
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼
氏族 長井氏美濃井上氏
父母 父:長井道利
兄弟 道勝頼次時利
赤座永兼
利中
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井上 時利(いのうえ ときとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将長井道利の三男。美濃国田畑城主。

初め織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉に仕える。慶長4年(1599年)、美濃と河内国の両国に760石を知行したが、翌5年(1600年)の関ヶ原の戦い織田秀信の西軍参加を受けてこれに従い、戦後、徳川家康から改易されて浪人する。慶長19年(1614年大坂冬の陣で豊臣方に付き、幕府軍の備えで谷町口に置かれた。

慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣で薄田兼相と共に大坂へ行き、徳川方の秋山右近を討ち取るが[要出典]、幕府軍の猛攻に遭い討死(道明寺の戦い)した。享年50。

なお、『徳川実紀』(『台徳院殿御実紀』巻37、764)では、菅沼定芳によって討ち取られたとある。また、本書では、秋山右近は徳川方(水野勝成の旗下の大和組)で、道明寺の戦いで同じく討死したとある。秋山右近を討ち取ったかどうかは不明である。

時利が織田有楽斎らと親しかったため、有楽斎らが崇源院にとりなし、その結果、子・利中はのちに罪を許され、江戸幕府2代将軍秀忠に仕えている。

紫衣事件で処罰された玉室宗珀は幼少時、時利の弟として育てられたという[4]

脚注

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  1. ^ 『美濃明細記』
  2. ^ 美濃国諸旧記
  3. ^ 『美濃国諸旧記』、『美濃明細記』
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』