井上康文
井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1973年4月18日[1])は、日本の詩人、作家、新聞記者[1]。本名・康治[1][2]。日高駿一の筆名も用いた[1]。
生涯で3回結婚した[3][4]。最後の妻、井上淑子(きよこ)もまた詩人であった[5]。
略歴
[編集]戦前・戦中
[編集]神奈川県小田原市出身[3]。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた[1][3]。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める[1][3]。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派[6]」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された[3]。
さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会[2]。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した[3][6]。この溝が埋まることはなく、北原や西条八十らは1921年に詩話会を離脱[7]して「新詩会」を結成[4]。井上もまた詩話会の閉鎖的な運営に不満を感じ、分化する形で「詩人会」を設立、新人の作品発表の場を兼ねた機関誌『新詩人』を発行した[4]。『新詩人』は1924年に廃刊するが、1927年には改めて「詩集社」を結成。1934年まで『詩集』を発行した[8]。これらの同人活動と並行して、始まったばかりのラジオ放送に積極的に出演し、詩や映画を題材とした講演を行った[4]。また、民衆詩派の作品はラジオ放送で定期的に朗読された[9]。
太平洋戦争初期、日本統治下での文化工作や宣伝活動といった「宣伝戦[10]」のため多くの文学者やジャーナリストが南方に動員された[9][11]。井上もその対象となり、海軍報道班員としてラバウルやトラック諸島に派遣される[9][12]。期間中は現地での宣伝活動に従事したほか、帰国後には随筆集『水兵の眼』や愛国詩『祖国を護る』など、戦意高揚を企図した作品を発表した[9]。愛国詩の朗読もまたラジオ放送で人気を博した[4][9]。
戦後
[編集]戦後は産経新聞の記者を務めながら執筆活動を継続。1950年には「井上康文詩の朗読会」を設立した[13]。また競馬にも深く携わり、「日高駿一」の筆名で週刊サンケイに競馬記事を寄稿していたほか、『井上康文の競馬学』などの作品も著した[13][14]。その一方で地元小田原でも精力的に活動。福田正夫の七回忌であった1959年には小田原城址公園内に「民衆碑」を建て、民衆詩派を記念した[13][15]。また、桜井小学校[16]や白鴎中学校[17]など、市内小中学校の校歌も作詞した。
1973年没。七回忌にあたる1980年、城山公園内に文学碑が建立された[13]。墓所は多磨霊園[5]。
著書
[編集]- 『愛する者へ 詩集』新橋堂 1920
- 『愛の翼 詩集』詩人会叢書 1921
- 『情熱の嵐 詩、散文集』大同館書店 1923
- 『華麗な十字街 散文詩集』草原社 1926
- 『現代の詩史と詩講話』交蘭社 1926
- 『詩の作り方』素人社 1927
- 『手 詩集』素人社書店 1928
- 『光 詩集』詩集社 1929
- 『愛子詩集』紅玉堂書店 1930
- 『自由詩の作り方と鑑賞』紅玉堂書店 1930
- 『恋愛・生活・芸術 随筆』大同館書店 1930
- 『新らしい詩及詩人とその変遷』交蘭社 1931
- 『赤道を越えて 我従軍記』若桜書房 1943
- 『水兵の眼』文園社 1944
- 『山上の蝶 詩集』寺本書房 1946
- 『日本の山水 詞華集』富岳本社 1946
- 『井上康文の競馬学』サンケイ新聞社出版局 1970
- 『人生の対局 井上康文随筆集』詩集社 1973
編・共著
[編集]- 『自選日本現代名詩集 附・泰西名詩選』編 春陽堂 1920
- 『童謡・民謡・詩のつくり方』福田正夫共著 大同館 1921
- 『現代童話選集』編 一歩堂 1922
- 『童謡・民謡・詩傑作選集』福田正夫共編 大同館 1922
- 『近代名家抒情詩集 小曲』畑喜代司共編 交蘭社 1925
- 『松原神社社史』編著 松原神社 1932
- 『騎手石毛彦次郎』編著 石毛騎手追悼録刊行会 1940
- 『回想の白秋』編 鳳文書林 1948
記念文集
[編集]- 『詩人・井上康文』井上康文の詩碑を建設する会 1980
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f “井上康文 - 近代文献人名辞典(β)”. lit.kosho.or.jp. 2024年5月29日閲覧。
- ^ a b 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』p.2
- ^ a b c d e f 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』p.3
- ^ a b c d e 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』p.5
- ^ a b “井上康文 - 歴史が残る多磨霊園”. 2024年5月29日閲覧。
- ^ a b 乙骨明夫「民衆詩派」
- ^ 角田敏郎「詩話会」
- ^ 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』p.6
- ^ a b c d e 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』p.8
- ^ 岩上隆安 p.1
- ^ 木村一信 pp.165-166
- ^ 松本和也 p.2
- ^ a b c d 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』p.9
- ^ 日高駿一「ダービー目指す春競馬」
- ^ “民衆碑”. 0465.net. 小田原市商店街連合会. 2024年5月29日閲覧。
- ^ “桜井小学校 校章・校歌”. 2024年5月29日閲覧。
- ^ “白鴎中学校 校章・校歌”. 2024年5月29日閲覧。
参考文献
[編集]- 『井上康文 ある民衆詩人の足跡』小田原文学館、2014年3月 。2024年5月閲覧。
- 岩上隆安「日本陸軍宣伝隊による南方地域での「宣伝戦」」『陸上防衛』第2号、陸上自衛隊教育訓練研究本部、2023年2月15日。
- 乙骨明夫「民衆詩派」『改訂新版 世界大百科事典』、平凡社、2024年5月29日閲覧。
- 角田敏郎「詩話会」『改訂新版 世界大百科事典』、平凡社、2024年5月29日閲覧。
- 木村一信「大東亜共栄圏と文学者」『時代別日本文学史事典 現代編』、時代別日本文学史事典編集委員会、1997年5月。
- 日高駿一「ダービー目指す春競馬」『週刊サンケイ』臨時増刊 4月号、扶桑社、1960年4月、84-85頁。
- 松本和也「帰還する南方徴用作家・序説 ―尾崎士郎「朝暮兵」・火野葦平「敵将軍」」『人文学研究所報』第64巻、2020年9月、1-9頁。