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五島氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
五島家から転送)
五島氏(宇久)
家紋
丸に花菱まるにはなびし二つ引ふたつひき
本姓 嵯峨源氏
桓武平氏高望王流
称:清和源氏義光流武田氏流[1]
家祖 平家盛
武田信弘?[1]
種別 武家
華族子爵
出身地 上松浦党肥前国宇久島
主な根拠地 上松浦党
肥前国宇久島
長崎県南松浦郡福江町
凡例 / Category:日本の氏族

五島氏(ごとうし、ごしまし)は、武家華族だった日本氏族肥前国松浦郡宇久島を本拠とする宇久氏五島列島を平定して1592年に五島と改姓したのに始まる[2]。江戸時代にも福江藩(五島藩)主家として五島列島を領有し、明治に華族の子爵家に列した[3]

概要

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前身の宇久氏の出自は諸説あるが、その一つに壇ノ浦の戦い後に平清盛の弟家盛が宇久島へ上陸し、同島の領主となって宇久次郎と名乗り宇久氏(うくし)を興したという伝承がある。

宇久氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて宇久島から五島列島全域に支配を広げていった。豊臣時代の1592年に当時の当主宇久純玄五島氏ごとうしを名乗るようになった。五島氏は江戸時代を通じて明治維新まで福江藩(五島藩)藩主(1万2500石)として続いた。また分家に交代寄合の富江領主(3000石)があった。明治維新後には旧福江藩主家が華族の子爵家に列した。

歴史

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前身の宇久氏

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肥前国松浦郡宇久島(現長崎県北松浦郡宇久町)を本拠とする宇久氏の出自については諸説存在するが、どれも確証はない。その中の一つに始祖は平忠盛の子平家盛(平清盛の弟)であり、文治3年(1187年)に家盛が宇久島に土着したのに始まるとする伝承がある[4]旧宇久町(2006年に佐世保市に編入合併される)ではこの説に従い「平家の里」をキャッチフレーズとして町おこしに取り組んでいた。この他にも清和源氏の武田信弘が宇久島へ渡り築城して宇久家盛を名乗ったという説もある。

鎌倉時代正和年間には宇久披が鎮西探題の使節に任命されていることから宇久氏は鎌倉幕府御家人の地位を得ていたものと考えられている[4]

宇久覚の代の弘和3年・永徳3年(1383年)に福江島に移り、その子宇久勝は本拠を深江(現長崎県福江市)に定め、その後五島列島を平定した。

玉之浦納の反乱により一時衰退するも、宇久盛定松浦氏の援助により中興を果たす。盛定の跡は子の宇久純定が継いだが、純定は晩年にキリスト教への傾倒を強め、子の宇久純尭(五島純高)はキリシタン大名「ドン・ルイス」となる。純尭自身は熱心なキリシタンであったが、キリシタンへ反発する家臣との対立が次第に強まっていく。純尭の子の宇久純玄(五島純玄)は一転してキリシタンに対する弾圧者に転じた。

純玄は天正15年(1587年)に島津家征伐のため九州に下向した豊臣秀吉に帰順して五島列島の領地を安堵された[4]

朝鮮出兵

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朝鮮出兵の下準備

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天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉九州を平定した(九州征伐)。その際、宇久純玄(第20代当主)は、1万5,530石の本領を安著された。

天正17年(1589年)、秀吉は奥州伊達政宗を降し、翌年北条氏直小田原に囲み滅ぼし(小田原征伐)、徳川家康関東に移封し天下統一をなした。

国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。まず、朝鮮入貢を命じ、開かなければ討つ、と脅し対馬宗義調に折衝させ、同様にルソン高山国台湾)にも使者を出した。

天正19年(1591年)、秀吉は配下武将に出兵軍役を命じ、甥の内大臣豊臣秀次関白を譲って自らは太閤となり、肥前名護屋に城を築きそこに入った。9月、平戸城松浦鎮信に命じて壱岐勝本城を築かせた。その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、日野江城有馬晴信大村城大村喜前、五島城主五島純玄であった。宇久純玄はこの年、姓を五島に改めている。

小西行長と、宗義調の子・義智は、対朝鮮平和的計画進行を秀吉に献策し許されると話し合いで解決しようと朝鮮に渡ったが成果が無かった。秀吉はその間に加藤清正らの九州の諸将を壱岐と対馬に待機させ、文禄元年(1592年)3月13日、予定通り、一番隊小西行長、宗義智ら1万8,700人を渡海させて朝鮮半島に上陸させた。続いて加藤清正の二番隊、黒田長政の三番隊というように九番隊まで総勢15万8,000人と九鬼嘉隆らの船奉行9,200人(後に水軍編成へ順次移行)を組織した。肥前の名護屋城には徳川家康前田利家上杉景勝伊達政宗ら兵十余万の予備軍団を待機させた。五島領主の五島純玄は、一番隊小西行長に属し、軍役担当に従って兵700を出陣させ、五島八郎兵衛盛長を城代留守役に命じた。

五島勢が属する一番隊の編成

総計 18,700人

文禄の役での五島勢

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文禄元年(1592年)4月12日、朝鮮に進撃した五島勢は10月3日一番隊の先鋒となって奮戦し、釜山鎮城を即日攻略した。翌日には慶尚道東莱城を落とし、17日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃して慶尚道、忠清道、京畿道の諸城は戦わずして攻略した。秀吉侵攻軍はわずか19日で朝鮮の首都漢城を落とした。首都漢城占領に先立ち朝鮮国王は首都を捨てて逃亡し、民衆は暴徒化し景福宮奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院などに放火し消失させた。

朝鮮水軍の李舜臣が釜山西方に展開中の日本船を攻撃し、数千の日本陸軍と水軍が対応の為に拘束された。また、釜山から漢城までの輸送路がゲリラ攻撃されると内陸部では兵糧備蓄の不安が起きた。7月には朝鮮の救援要請に応えた明の遼東副総兵・祖承訓北京の命令を待たず援軍を発した。祖承訓は朝鮮の義州から南下をはかり平壌城を攻めるが小西行長らに撃退された。

文禄2年(1593年)正月、明は李如松を総兵官として4万3000の兵をもって、平壌の小西行長を包囲した。この戦いの際、一番隊の戦死者1600名で、五島勢でも太田弾正、江十郎、青方新八らが討ち死にした。行長は撤退を強いられ、漢城まで後退した。

漢城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情が紛糾を極めた。そんな中勢いに乗った李如松が南下して漢城に迫った。隆景は宇喜多秀家立花宗茂吉川広家らとともに李如松を碧蹄館に迎え撃ち破った(碧蹄館の戦い)。この際、五島純玄も出陣していた。

しかし兵糧不足に陥った日本軍は漢城を撤退し、釜山方面に集結した。両軍とも講和の機運が高まり、明から使者が来たのにともなって、和平交渉に入ったが折り合いがつかず難航した。

このような最中、五島勢に一大事が起こった。陣中で疱瘡にかかった純玄が、7月28日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中で五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉青方善助らと協議し小西行長を訪れ、純玄の遺言を伝えた。行長はすぐに名護屋城に使いを走らせたが家臣一同の不安が解けないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家を相続するように勧めた。玄雅は一度拒み、行長はさらに甚吉を召して再協議し、玄雅を再度召して、留守役五島八郎兵衛の息子を養子として受け入れた上で五島家を相続することを勧めた。その条件で玄雅は第21代五島家当主になった。

北京から明の使節がきた。慶長元年9月1日、大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分を見て激怒し、小西行長の和平交渉が詐欺であったことがわかり、この場で誅殺しようとした。西笑承兌の取り成しと行長自身の陳謝で行長は命を取り留めた。

秀吉は再度出兵を命じた。

慶長の役での五島勢

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慶長元年(1596年)9月、秀吉は再度朝鮮出兵の命を下した。秀吉の作戦目標は全羅道を徹底的に撃滅し、なるべく忠清道と京畿道にも進撃し、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を決め、その他の諸将は帰国させるというものだった。[5]在朝鮮の2万の守備軍を含め、総勢14万1500人が朝鮮半島に進撃を開始した。五島玄雅は、小西行長の軍に属し閑山島の攻略に参加し打ち破っている。

日本軍は全羅道から忠清道の掃討を順調に行い、反撃してきた明軍を稷山の戦いで蹴散らし首都の漢城を脅かし、京畿道にも進撃して作戦目標を達成すると朝鮮南岸へ撤収して城郭の建設を始めた。

慶長2年(1597年)12月、建設中の蔚山倭城が明の援将経理楊鎬の率いる5万7千の大軍に包囲された。蔚山城の守将浅野幸長と援軍に駆けつけた加藤清正は未完成の城と兵糧の備蓄など籠城の準備が整わない状態により苦しい戦いを強いられたが、幾度も明軍を撃退し、多くの死傷者を出した明軍の戦意を喪失させた[6]五島玄雅毛利秀元らの援軍に参加し、得意の水軍を率いてこれを救援、明軍の背後を突き突撃した。これを見た加藤・浅野の篭城軍は打って出て、明軍を破り追撃した。明軍の戦死者は2万にも達した[7]。慶長3年(1598年)1月1日のことだった。

秀吉は、1月17日、寺沢広高を通じて玄雅に、「今度大明人蔚山取還之由注進付 而為後巻雖押出候敵引退之由 既に自此方も安芸中納言 増田右衛門 因幡但馬大和紀伊九鬼父子等可取立旨雖被仰付候右之分候間不及是非候 云々」の朱印状とともに、小袖一服、道服一服を与えた。さらに8月、玄雅がいったん帰朝して家督相続の御礼のために大坂城に伺候したさい、秀吉は抜群の戦功を愛でて「豊臣」の姓を名乗ることを許した。

慶長3年(1598年)五島勢は、小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前とともに順天の東南10キロメートルの光陽湾岸に築かれた順天倭城を守っていた。10月2日から4日にかけて明・朝鮮軍が水陸から順天倭城を攻撃したが、これを撃退する(順天の戦い)。この戦いに先立つ事8月18日、既に秀吉は逝去していたが、このことは在朝鮮日本軍には秘匿されていた。10月15日、五大老の名において在朝鮮日本軍に撤退命令が出され、朝鮮より撤退する事となったが、小西軍に属していた五島勢は共に明水軍・朝鮮水軍の海上封鎖を受けて撤退を阻害された。五島勢を含む小西軍を救うため、島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢広高は水軍を編成し救援に赴く。島津らの救援水軍に明・朝鮮の水軍が攻撃に向かって露梁海戦が起きたため、封鎖が解けた隙をついて五島勢を含む小西軍の船団脱出が成功したため朝鮮出兵も終息した。この戦役を通じて五島勢と島津勢は極めて親しく付き合い、島津勢がたびたび五島勢に加勢して戦ったという。

江戸時代

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玄雅は関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603年)に徳川家康に本領の五島列島を安堵され[8]、1万5530石の副江藩(五島藩)主となった[9]

万治3年(1660年)には幼少の4代藩主五島盛勝の後見人だった叔父五島盛清に福江島南端の所領3000石が分与され、富江領が成立している[8][10]。この家は交代寄合に列した。

この分与により福江藩は1万2500石になり、明治まで続いた。

明治時代以降

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最後の福江藩主五島盛徳は、明治2年(1869年)の版籍奉還華族に列するとともに副江藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[9]。なお交代寄合家の富江領は明治元年(1868年)に副江藩に併合されている[8][9]

版籍奉還の際に定められた家禄は646石[11][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、2万4587円12銭2厘(華族受給者中191位)[13]

明治17年(1884年)に華族令の施行で華族が五爵制になると、当時の当主五島盛主は旧小藩知事[注釈 2]として子爵に列せられた[3]

2代子爵五島盛光は大正期に貴族院の子爵議員に当選して務めた[15]

昭和前期に五島子爵家の邸宅は長崎県南松浦郡福江町にあった[15]

系譜

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太字は宗家(福江藩主家)当主。実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。*は同一人物。
嵯峨源氏松浦党説】
松浦久
 
 
 
佐志調
 
 
 
【清和源氏説】
武田信義
 
 
 
 
 
【桓武平氏説】
平清盛
有義
 
 
 
 
 
 
 
家盛(宇久家盛)1佐志奉武田信弘
宇久家盛1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源盛
 
 
 
2[系 1]
 
 
 
 
 
 
 
宇久太3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4玉之浦氏
玉之浦貞
峯氏
峯湛
 
 
 
5
 
 
 
6
 
 
 
7
 
 
 
尾張守8
 
 
 
伊豆守9
[系 2]
 
 
 
10
 
 
 
11
 
 
 
12
 
 
 
大和守13
 
 
 
14
 
 
 
次郎三郎15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16[大浜氏]
大浜勝重
青方氏
青方続
 
 
 
盛定17
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
純定18盛重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
民部純尭19五島定実[福江藩主家]
大浜玄雅
五島玄雅
21
盛長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
純玄20
[系 3]
大浜玄宗
(五島角右衛門)
大浜玄義盛利*22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
主水盛次23[交代寄合]
盛清
 
 
 
 
 
盛勝24盛朗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛暢25奥平昌章日向正竹盛延盛尚内藤種丈盛純長谷川貞暁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛佳26本多成興盛峰盛幸
 
 
 
 
 
盛道27盛恭*
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛義盛運28道高盛恭*運龍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛繁29青方運善運広運綱盛貫
[系 4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛成30大給松平近章盛保忠泰盛明
[系 5]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛徳31牧野忠泰基民
[系 6]
溝口長救
 
 
 
 
 
盛主32尚泰王聰千代
 
 
 
 
 
[子爵家]
盛光33
[系 7]
尚順
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛寛盛輝34
 
 
 
英子常子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
典昭*35
[16] [系 8]
五島典昭*
  1. ^ 桓武平氏説の場合、女子。清和源氏説の場合、佐志奉の子。
  2. ^ 阿野対馬守の子。
  3. ^ 純尭の兄・民部の子とも。
  4. ^ 美作津山藩主家一門・越前松平維賢の長男。
  5. ^ 交代寄合・溝口養正の2男。
  6. ^ 五条為定の子。当初、壬生家と縁組後離縁。
  7. ^ 越後新発田藩主溝口直溥の16男。
  8. ^ 五島市観光協会会長、城山神社宮司。

画像

[編集]

脚注

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  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[12]
  2. ^ 旧福江藩は現米6460石(表高1万2500石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[14]
  1. ^ a b 太田 1934, p. 2319.
  2. ^ 世界大百科事典 第2版『五島氏』 - コトバンク
  3. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 331.
  4. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『宇久氏』 - コトバンク
  5. ^ 二月二十一日付朱印状(立花文書他)
  6. ^ 始自子夜, 天明乃罷, 而賊丸如雨, 死傷甚衆, 無一人抵城者。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  7. ^ 鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬『明史・朝鮮伝』
  8. ^ a b c 藩名・旧国名がわかる事典『福江藩』 - コトバンク
  9. ^ a b c 新田完三 1984, p. 721.
  10. ^ 新田完三 1984, p. 720.
  11. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 17.
  12. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  13. ^ 石川健次郎 1972, p. 48.
  14. ^ 浅見雅男 1994, p. 151.
  15. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 334.
  16. ^ [解藩知県]令和の殿<4>旧福江藩五島家 五島典昭さん 66(読売新聞、2021年8月14日)2021年12月18日閲覧。

文献

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  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • オープンアクセス太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 五島 ゴタウ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2319-2320頁。 NCID BN05000207OCLC 673726070全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/253 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 

関連項目

[編集]