五十目秀兼
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 藤原秀盛→五十目秀盛 |
別名 | 四郎右衛門、秀盛 |
官位 | 内記、兵庫介 |
主君 | 安東愛季→秋田実季→南部信直 |
氏族 | 五十目氏 |
五十目 秀兼(いそのめ ひでかね)は、戦国時代の武将。檜山安東氏の家臣。出羽国砂沢城主。
生涯
[編集]安東愛季の直臣。天正10年(1582年)に浅利勝頼が謀反を起こした際、後任の比内代官として浅利氏の居城である大館城に入った。
天正16年(1588年)に秋田実季の命で八郎潟地方の統治を任され、砂沢城(五城目城)を築いた。またこの時に、地名に因んで五十目氏を名乗ったとされる[1]。
しかし同年中に実季と不和になり、南部信直に内応し南部氏を比内地方に引き入れた。大館城には北信愛が城代に入った[2]。