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于公異(う こうい、生没年不詳)は、唐の文人。本貫は蘇州呉県。
建中2年(781年)、進士に及第した。4年(783年)、李晟の下で招討府掌書記となった。興元元年(784年)、李晟が朱泚の乱を平定すると、公異は長安に帰り、露布に文章をしたためた。徳宗はこれを見て泣き、公異が作ったと聞いてまた感嘆した。
公異は陸贄との仲が険悪であった。ときに公異は継母に孝事せず、このため帰省しないのだと噂された。貞元8年(792年)、陸贄が宰相となると、公異の家庭事情を奏上した。徳宗は公異に『孝経』を賜り、郷里に帰させた。公異は冷遇されたまま死去した。
- 『旧唐書』巻137 列伝第87
- 『新唐書』巻203 列伝第128 文芸下