二軒小屋古墳
二軒小屋古墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
所在地 | 熊本県熊本市西区池上町池上[1] |
位置 | 北緯32度47分36.77秒 東経130度39分39.80秒 / 北緯32.7935472度 東経130.6610556度座標: 北緯32度47分36.77秒 東経130度39分39.80秒 / 北緯32.7935472度 東経130.6610556度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
直径15m 高さ4m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室(肥後型) |
出土品 | 須恵器片 |
築造時期 | 6世紀後半 |
史跡 | なし |
地図 |
二軒小屋古墳(にけんごやこふん)は、熊本県熊本市西区池上町池上にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。
概要
[編集]熊本県中部、井芹川北岸の金峰山南東麓付近の丘陵斜面上(標高60メートル)に築造された古墳である[1][2]。古墳名は、古墳付近に人家2軒(現在は1軒)が所在することに由来する。かつて西50メートルに円墳1基(二軒小屋古墳と類似構造の小型横穴式石室墳)が存在したが、現在は失われている[2]。1997年(平成9年)に石室実測調査が実施されている。
墳丘周囲の削平のため元の墳丘は明らかでないが、墳形は円形で、現状では直径約15メートル・高さ約4メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。単室構造の石室で、玄室の奥壁には自然石を組み合わせた石屋形を据え、壁面は急に持ち送りドーム状(穹窿状)の天井を形成するという、肥後型石室としての特色を示しており、石室の保存状態は極めて良好である。未調査のため副葬品は詳らかでなく、石室実測調査の際に須恵器の小片のみが採集されている[2]。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[2]。
遺跡歴
[編集]- 戦時中、防空壕として利用[2]。
- 戦後、倉庫として利用[2]。
- 1969年(昭和44年)、石室略測図の報告[2]。
- 1996年(平成8年)、『新熊本市史』において墳丘測量図の報告[1]。
- 1997年(平成9年)、石室実測調査(熊本大学文学部考古学研究室、1998年に報告)[2]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:8.5メートル
- 玄室:長さ3.8メートル、幅3.5メートル、高さ4.2メートル
- 羨道:長さ4.7メートル、幅0.8-1.5メートル、高さ1.4-1.5メートル
石室の石材はほとんどが安山岩で、羨道中央部の羨門にのみ阿蘇熔結凝灰岩を使用する。玄室の平面形は略方形。側壁の下部には大型の石材を据え、その上に安山岩の塊石・割石を持ち送りながら積み上げて、整美なドーム状(穹窿状)の天井を形成する。袖石には安山岩の巨石を据え、その上に塊石1段を積んだうえで、楣石を架け渡す。玄室の天井石は1枚。羨道は開口部に向かって徐々に開く平面形である。玄室同様に壁面の下部には大型の石材を据え、その上に塊石・割石を積む。羨道ほぼ中央部には阿蘇熔結凝灰岩製の羨門を構築する。羨門には角柱状の石材を使用し、開口部側には閉塞石を受けるための刳り込みが認められる。羨道の天井石は4枚。羨門の閉塞石は長方形の板状で、羨道前面に遺存しており、羨道前面の他の塊石も閉塞に使用された石材の可能性がある。石室の横目地は袖石上面で揃っており、玄室下部・羨道側壁、羨道天井石、玄室上部の構築順と推測される[2]。
玄室内には、奥壁に石屋形が構築される。安山岩の自然石の巨石を組み合わせたもので、内法は幅約2.1メートル・長さ約1.2メートル・高さ約1メートルを測る。石屋形の床面を中心に礫が多く散在するため、礫床の可能性がある[2]。
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玄室(奥壁方向)
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玄室(奥壁方向)
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玄室の石屋形
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羨道後半(開口部方向)
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羨道後半(玄室方向)
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羨道前半(開口部方向)
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羨道前半(玄室方向)
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開口部
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 「二軒小屋古墳」『新熊本市史』 史料編 第1巻 考古資料、熊本市、1996年。
- 「肥後における古墳の調査2 > 二軒小屋古墳」『用見崎遺跡4 西原F遺跡2 肥後における古墳の調査2』熊本大学文学部考古学研究室〈考古学研究室報告第33集〉、1998年。 - リンクは熊本大学学術リポジトリ。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 「二軒小屋古墳」『熊本市西山地区文化財調査報告書 -附楢崎山古墳緊急調査報告書-』熊本市教育委員会、1969年。