二水記
二水記(にすいき)は、戦国時代の公家鷲尾隆康の日記。記述は永正元年(1504年)にはじまり、天文2年(1533年)2月に絶筆している。他の中世の日記同様、欠落が所々に見られ、永正3年から13年、大永4年、享禄2年などの記述が欠落している。また天文元年の記述は最初からなく、つまり隆康はこの年は日記を書いていなかったようである。[1]内閣文庫に自筆の原本が20冊所蔵されており、写本も複数存在。写本の中には原本の欠落を補填しているものもある。
二水記という名前は記述が始まった「永正」の元号を由来とする。二水とは永正の「永」の文字を「二」と「水」に分解したもので、永正の「正」の字を同じく「一」と「止」に分解し「一止記」という別名で呼ばれることもある。その他、「烏兎私記」、「一暦記」、「一水記」などの別名を持つが、二水記の名が一般的に通用している。[2]
隆康の生きた戦国時代初期は、応仁の乱における京都の荒廃や下剋上の風潮により、没落する公家が多く、隆康もまたそうであった。二水記は、没落してゆく公家の悲哀を知る史料として重宝されている。
朝廷の行事、皇族の日常、室町幕府の動向や朝幕の交渉などが記述されており、更に巷の風聞などにも言及している。筆者の鷲尾隆康は有職故実に精通しており、それに関連する情報が豊富に含まれている他、遊芸にも堪能であったため、連歌、蹴鞠、囲碁、貝合わせなどに関する記事も多い。
隆康の死後、鷲尾家は断絶してしまったが、日記は隆康の実兄四辻公音が所有して保存され、慶長4年(1601年)に後陽成天皇の勅命によって書写が行われ、写本が出来た。そして四辻季満が鷲尾の名跡を継いで鷲尾隆尚と改名し、日記も鷲尾家に戻った。後陽成天皇の命で書写された写本そのものは寛文元年(1661年)の内裏火災で焼失してしまったが、承応元年(1652年)に東園基賢に、明暦元年(1655年)から万治元年(1658年)にかけて後西天皇を中心に複写が行われていた為、完全に消失することはなかった。
原本はその後油小路家に伝来したようである。広橋兼勝の子が鷲尾家と四辻家の両家に養子として入っており、それと何らかの関係があったと指摘されている。[3]しばらく油小路家にあった原本だが、文化14年(1817年)鷲尾家に戻された。明治年間になり、猪野中行、頴川良辰の手を経て、内閣文庫が購入し、現在に至る。
最初の内は天候、日付、その年の干支を必ず付記していたが、年を追うごとに日付、天候の付記は簡略化されてゆく傾向にある。