亀井矩賢
表示
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 明和3年(1766年)6月 |
死没 | 文政4年2月24日(1821年3月27日) |
改名 | 吉三郎(幼名)、矩賢 |
戒名 | 賢体院殿崇隆泰翁大居士 |
墓所 | 島根県鹿足郡津和野町の亀井家墓所 |
官位 | 従五位下、隠岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 石見国津和野藩主 |
氏族 | 亀井氏 |
父母 | 父:亀井矩貞、母:側室・浜野正武の娘 |
兄弟 | 矩賢、茲益、茲尚、祐三郎、豊次郎、茲邑、他 |
妻 | 松平忠啓の娘・雲性院 |
子 |
吉三郎、鉄五郎、娘(大村純昌正室)、娘(間部詮允正室)、娘(菅沼定敬正室)、娘(相良頼之正室) 養子:茲尚、養女:(亀井茲明室)、(松平清良正室)、(片桐貞信正室) |
亀井 矩賢(かめい のりかた)は、石見津和野藩の第8代藩主。津和野藩亀井家9代。
生涯
[編集]明和3年(1766年)6月、第7代藩主亀井矩貞の長男として津和野で生まれる(生年は宝暦11年(1761年)とも)。父の養子となっていた茲休が早世したため世嗣となり、天明3年(1783年)4月18日、父の隠居により家督を継いだ。天明4年(1784年)12月、従五位下・隠岐守に叙位・任官する。
しかし天明の大飢饉、さらに幕府の公役などにより財政難はさらに進んだ。このため財政整理や目安箱設置など改革を行なったが、父と同じく学問肌の藩主であり、天明6年(1786年)に藩校・養老館を設置する[1]などして文学の発展に尽力したため、結局のところ財政再建はならなかった。ただし寛政12年(1800年)には藩士から庶民にまで範囲を広げ、医学を志す者には学資を貸与するという、現在でいう留学制度を設けるなど、優れた政策があった。
文政2年(1819年)5月16日、弟で養子の茲尚に家督を譲って隠居する。文政4年(1821年)2月24日に江戸で死去した。享年56。