乳井建定
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 美作 |
主君 | 津軽信義 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 乳井氏 |
父母 | 乳井建清 |
兄弟 | 日向守、建定、建吉 |
妻 | 津軽信政長女・富 |
乳井 建定(にゅうい たてさだ)は、江戸時代前期の弘前藩の家老。
略歴
[編集]津軽統一の功臣乳井建清の子として誕生。3000石を食み、津軽姓を許され、家老となる。
寛永10年(1633年)、津軽信義に召し抱えられた新参者の船橋長真に不満を示し、お役御免となった。その後も家老・乾安儔と船橋長真が結託し、悪政を行っていることに不満を持っていたが、服部康成に諌められ、行動を控えていた。翌11年(1634年)7月に信義に従い、3代将軍・徳川家光の上洛の伴をした。翌月、江戸に戻ると譜代の家臣兼平信孝らと共に、船橋長真の放逐を求めた(船橋騒動)。
寛永13年(1636年)、江戸幕府より喧嘩両成敗の裁決が下った。そして、建定は兼平信孝と共に長府の毛利秀元、乾安儔と船橋長真は伊予松山の松平定行の許にお預けとなった。この騒動で服部康成の子・成昌が加賀藩前田氏に仕官するなど、多くの譜代の家臣が津軽氏の許を離れた。
その後、建定は長門で死去。乳井氏は弟・建吉が継ぎ、子孫に乳井貢などを輩出した。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社