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久須美祐雋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

久須美 祐雋(くすみ すけとし、寛政8年(1796年) - 文久3年12月24日1864年2月1日[1])は、江戸時代後期の旗本久須美祐明の長男。祐義豊田友直祐利の兄。子に祐温。通称は権兵衛、六郎左衛門。官位は従五位下佐渡守。号は蘭林、無不香園。

来歴

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天保14年(1843年8月8日書院番から目付に任命され、翌15年(1844年)に西丸先手弓頭に異動、嘉永5年(1852年4月16日に本丸先手弓頭と火付盗賊改方を兼ねた。同年12月16日に家督を相続、安政2年(1855年5月22日大坂西町奉行へ異動、6年間務めた後文久元年(1861年12月15日旗奉行、文久3年(1863年8月14日講武所奉行並となり同年12月に死去。享年69。文久2年(1862年)に子の祐温に先立たれたため、家督は末弟の祐利が相続した。

文化人で養蘭家でもあり、『近郊遊記』・『在阪漫録』・『甲冑区名図解』・『浪華日記』・『浪華の華』・『養難養説』等を書き記している。また、弟の祐義、豊田友直や甥の杉浦梅潭らと日記を通して情報交換を行っていた。

経歴

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脚注

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  1. ^ 柳営補任』では元治元年(1864年)2月死去とされている。

参考文献

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