久松定弘
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久松 定弘(ひさまつ さだひろ、1857年1月27日(安政4年1月2日[1])- 1913年(大正2年)7月7日[1][2])は、明治期の哲学者、官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・弘太郎[3][4][5]。
経歴
[編集]父は上総大多喜藩主・松平正義の長男正晴で、その長男として上総国大多喜で生まれる[1][3][4][5]。明治4年12月27日(1872年2月5日)旧伊予今治藩主・久松定法の養子となる[3][4]。明治5年8月7日(1872年9月9日)養父の隠居に伴い家督を継承[1][3][4]。1884年7月8日、子爵を叙爵した[4][5][6]。
漢学を島田篁村、英語を河津祐之、ドイツ語及び普通学(一般教養科目)を司馬凌海、エルヴィン・クニッピング、ルドルフ・レーマンらに学んだ[7]。1874年11月10日、留学のためドイツ帝国へ出発し、オイゲン・デューリングなどに師事し哲学と文学について学んだ[8]。
1878年12月8日に帰国し、1879年に私塾「理文学舎」を開き、西洋哲学、ドイツ文学などを教えた[8]。1883年に理文学舎を閉め、同年8月、内務省御用掛准奏任出仕となる[9]。以後、同権少書記官、警官練習所幹事、内務省参事官、外務省公使館書記官、第一高等中学校哲学授業嘱託、同教諭などを務めた[2][10]。
1890年7月10日、貴族院子爵議員に選出され[2]、1891年3月、公使館書記官と第一高等中学校教諭を依願退職した[11]。茶話会、懇話会、研究会などに所属して活動し[12]、1904年7月10日まで2期在任した[2]。その後、東亜火災保険相互会社取締役会長を務めた[5][12]。
著作
[編集]- 『米国官海涜話』進学舎、1882年。
- 編『理想境事情:一名・社会党沿革』進学舎、1882年。
- 『独逸戯曲大意』久松定弘、1887年。
- 訳書
- エル・フホイエルバッフ著『道義学之原理』久松定弘、1887年。
- エル・フォン・スタイン著『警察論』上下、前田恒太郎、1887年。
- オイゲン・ガール・ヂウリング著『女子高等教育論』前田恒太郎、1887年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』下巻、400-401頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
- ^ a b c d 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」99頁。
- ^ a b c d e 『大日本華族大鑑』271頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第3版』ひ71頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」100頁。
- ^ a b 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」101頁。
- ^ a b c 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」102頁。
- ^ 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」102-103頁。
- ^ 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」103-104頁。
- ^ a b 「久松定弘と『独逸戯曲大意』」104頁。
参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 上村直己「久松定弘と『独逸戯曲大意』」『熊本大学教養部紀要』外国語・外国文学編、第18号、1983年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (今治)久松家初代 1884年 - 1913年 |
次代 久松喬 |