丹山美沙緒
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基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
生年月日 | 1978年3月14日(46歳) | |||
出身地 | 大阪府大阪市 | |||
ラテン文字 | Misao Tanyama | |||
身長 | 176cm | |||
体重 | 68kg | |||
選手情報 | ||||
愛称 | ミサオ | |||
ポジション | オールラウンド(OH / S) | |||
利き手 | 左 |
丹山 美沙緒(たんやま みさお、1978年3月14日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。
来歴
[編集]大阪府大阪市出身。父は在日韓国人で、バレーボールの在日クラブチームでプレーしていたことがあり、ミュンヘンオリンピックの候補にもなったが、国籍の関係で選ばれなかった[1]。建国中学校のとき、さわやか杯で優勝、選抜にも名前があったが国籍の関係で外れてしまい、両親がそれではかわいそうだということで帰化を決意、高校2年生のときに日本国籍を取得した[2]。
左腕から繰り出されるジャンプサーブを武器に活躍した。NEC時代は層の厚さから殆ど出場機会を得られなかったが、1999年に東洋紡に移籍すると、サウスポーから放つジャンプサーブやスパイクで活躍。スタメン出場こそ無かったが、途中出場で度々存在感を見せた。第6回Vリーグではサーブ賞を受賞。当時日本代表監督の葛和伸元から「流れを変えられる選手」との評価を受けている。翌年はセッターに転向するも、アタッカーとしてプレーしていた前年に比べて出場機会を減らす事となった。
2001年夏、東洋紡を退部し、トヨタ車体に移籍。同じく左利きの高橋翠とツーセッターを組み活躍した。2004年に退部後は大阪の大学でコーチを務めていたが、翌年から単身モンゴルに渡り、国内リーグで選手としてプレーした。
2010年4月、健祥会レッドハーツの選手として登録公示され、翌月の黒鷲旗選手権に出場。実に6年ぶりの日本復帰となった。
2016年時点では賢明学院のバレーボール部コーチをしていた[3]。
人物
[編集]所属チーム
[編集]- 建国中学校
- 大阪女子短期大学高等学校
- NECレッドロケッツ(1996-1999年)
- 東洋紡オーキス(1999-2001年)
- トヨタ車体(2001-2004年)
- エルチム(2005-2011年)
- 健祥会レッドハーツ(2010年)
- ペトロン・ブレイズ・スパイカーズ(2012-2013年)
- シュプリーム・チョンブリー(2013–2014年)
- ペイマヤ・ハイフライヤーズ(2014年)
出典
[編集]外部リンク
[編集]- 日本バレーボールリーグ機構の旧サイトにおけるプロフィール - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- 丹山美沙緒 公式ウェブサイト
- 丹山美沙緒 公式ブログ 蒼い風に吹かれながら MISAO in モンゴル
- 丹山美沙緒 (旧)公式ブログ 大陸の蒼い風 MISAO in モンゴル - ウェイバックマシン(2006年6月13日アーカイブ分)
- 丹山美沙緒 - Vリーグ選手記録