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丸野頼成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丸野頼成
時代 南北朝時代 - 室町時代
死没 明徳5年1月19日1394年2月19日
改名 頼豊→頼成
別名 四郎(通称
戒名 示賢
氏族 相良氏→丸野氏
父母 相良定頼
兄弟 相良前頼頼刧丸目頼書頼成青井前成小垣頼氏、女(相良統頼室)
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丸野 頼成(まるの よりなり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将相良氏6代当主・相良定頼の四男で丸野氏の祖。通称は四郎。初名は頼豊。

生涯

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相良氏の惣領で人吉城主の相良前頼は兄で、今村頼刧、小垣頼氏、丸目頼書青井前成とも兄弟。

今川貞兼都之城都城市)を本拠とする北郷氏を攻めた際、長兄の前頼と共にその支城を攻めた。しかし島津元久の援軍が現れて、樺山城合戦で敗北。近くの野々美谷城に退去したが、逆に城を攻められ、明徳5年1月19日(1394年2月19日)に前頼と共に戦死した。法名は示賢。

参考文献

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