丸野頼成
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代 |
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死没 | 明徳5年1月19日(1394年2月19日) |
改名 | 頼豊→頼成 |
別名 | 四郎(通称) |
戒名 | 示賢 |
氏族 | 相良氏→丸野氏 |
父母 | 相良定頼 |
兄弟 | 相良前頼、頼刧、丸目頼書、頼成、青井前成、小垣頼氏、女(相良統頼室) |
丸野 頼成(まるの よりなり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。相良氏6代当主・相良定頼の四男で丸野氏の祖。通称は四郎。初名は頼豊。
生涯
[編集]相良氏の惣領で人吉城主の相良前頼は兄で、今村頼刧、小垣頼氏、丸目頼書、青井前成とも兄弟。
今川貞兼が都之城(都城市)を本拠とする北郷氏を攻めた際、長兄の前頼と共にその支城を攻めた。しかし島津元久の援軍が現れて、樺山城合戦で敗北。近くの野々美谷城に退去したが、逆に城を攻められ、明徳5年1月19日(1394年2月19日)に前頼と共に戦死した。法名は示賢。
参考文献
[編集]- 『南藤蔓綿録』(1977年 青潮社)
- 『人吉市史 第一巻』 人吉市史編さん協議会
- 熊本県教育会球磨郡教育支会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 球磨郡誌』熊本県教育会球磨郡教育支会、1941年 。