丸山五郎
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丸山 五郎[1](まるやま ごろう、旧姓・横田、1872年6月15日(明治5年5月10日)[2] - 1963年(昭和38年)6月20日[3])は、日本の医師[1][2][4]、埼玉県医師会長[5]、政治家・衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。ダンサーのSAMは曽孫にあたる[6]。
経歴
[編集]埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)に生まれた[5]。埼玉県士族・横田半十郎の二男で[2]、丸山家を嗣いだ[4]。1893年(明治26年)、東京慈恵医院医学専門学校を卒業[2]。東京病院に勤務した[2][4]。1896年(明治29年)、南埼玉郡岩槻町に医院を開業した[2]。南埼玉郡会議員、同参事会員、同議長に選出された[5]。
1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
その他、南埼玉郡医師会長、埼玉県医師会議員・理事、日本医師会議員、埼玉県医師会長、岩槻自動車株式会社取締役などを務めた[3]。
人物
[編集]丸山は非常に政治好きであり、土地の者は丸山を「政治科のお医者さん」と言っていた[1]。
宗教は曹洞宗[2][4]。趣味は盆栽、骨董[2]、書画[4]。住所は埼玉県南埼玉郡岩槻町[2][4]。
家族・親族
[編集]- 丸山家
- 養父・正吉[2]、あるいは吉正(旧岩槻藩士)[6]
- 妻・菊子(1875年 - ?、埼玉士族、寶生金五郎の二女、SAMの曽祖母)[2]
- 養子・正三(1905年 - ?、小澤三吉の甥)[2]
- 長男・正(1898年[2] - ?、東京帝国大学医科卒、SAMの祖父)
- 同妻・光子(赤間周吉の長女、SAMの祖母)[4]
- 二男・正次(1902年[2] - 1999年) - 法曹となった正次は、親族中では異色の存在だった。旧制粕壁中学校(現春日部高校)、二高、東京大学法学部を経て、判事になった[7]。在職中、日本で初めて、医療過誤の判例を研究し、「医師の診療過誤について」という本を著した。その後、判事を辞め、弁護士に転じてからは、医師会の顧問として活躍した[7]。享年97歳。
- 五男・敏夫(1908年 - ?)[2]
- 六男・武雄(1910年 - ?)[2]
- 七男・正寛(1914年 - ?)[2]
- 長女・多喜子(勝正吉の妻)[4]
- 三女・千代(1913年 - ?)[2]
- 親戚
- 勝正吉(海軍軍医少将)[4]
脚注
[編集]- ^ a b c 『新代議士名鑑』70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『大衆人事録 第3版』マ之部101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月24日閲覧。
- ^ a b 議会制度百年史 1990.
- ^ a b c d e f g h i 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』埼玉40頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月25日閲覧。
- ^ a b c 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』427頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月24日閲覧。
- ^ a b SAM(TRF)〜医師の家系に生まれて 亡き父の思い、『ファミリーヒストリー』(2018年11月26日放送)。
- ^ a b 2006年(平成18年)12月のコラム、弁護士丸山正次先生と「離」、執筆 代表弁護士 大塚嘉一、菊地総合法律事務所公式サイト。
参考文献
[編集]- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。