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中野藤吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日[1] - 1990年[2]7月9日)は、日本経済思想史学者[3]歌人立川短期大学学長、明星大学経済学部教授などを歴任した。地元の立川市では、著名な文化人として知られていた[4]

経歴

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中野藤吾は、当時の東京府砂川町の素封家・中野家の当主であった中野田郎吉の長男として生まれた[5]

東京商科大学に学んで教職に進み、巣鴨経済専門学校(千葉商科大学の前身)、日本経済専門学校(亜細亜大学の前身)の教員を歴任した[5][6]

1947年に、義兄・中野喜介が理事長となった学校法人立川学園によって、(旧制)立川専門学校が開校した際には、初代校長となった[7]。同校は1950年に短期大学に昇格し、さらに1950年には都立へ移管されたが、その間、中野は学長であり続け、初代の東京都立立川短期大学学長となった[8]

歌人としては、1950年代から1960年代にかけて多くの短歌を発表した[9]

1971年明星大学経済学部教授に転じた[6]

1990年7月9日、入院先の立川中央病院急性肺炎により死去した[3]。没後には、正五位が遺贈された[8]

2000年には、柴崎町の崖線公園下に、カワラナデシコを歌った短歌の歌碑が設置され[10]7月7日に除幕された[9]

著書

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  • 日本社会の思想史的背景、明好社、1968年
  • 街の片隅から:言わずもがなの記、けやき出版、1990年
  • 街の片隅から : 言わずもがなの記 続、けやき出版,、1991年

脚注

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  1. ^ 『現代物故者事典 1988~1990』(日外アソシエーツ、1993年)p.456
  2. ^ 中野 藤吾 (1908-1990)”. WebCat Plus / 国立情報学研究所. 2020年9月17日閲覧。
  3. ^ a b 「中野藤吾氏死去」『朝日新聞・朝刊』1990年7月10日、31面。 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ 平成 29 年度 第1回立川市史編さん委員会 会議録” (PDF). 立川市 (2017年9月1日). 2020年9月17日閲覧。
  5. ^ a b 中野隆右 (2010年5月21日). “戦後立川・中野喜介の軌跡№26 [ふるさと立川・多摩・武蔵◆第七節 夜の市長と立川短大の設立]”. 知の木々舎. 2020年9月16日閲覧。
  6. ^ a b 高島秀樹「【資料:明星大学の歴史】明星大学開設初期における『研究紀要』(2)― 人文学部 ―」『明星 : 明星大学明星教育センター研究紀要』第6号、2016年、52-53頁。  NAID 120005755578
  7. ^ 立川市の散歩コース【3.近・現代を歩く】”. 立川市教育委員会 (2020年7月1日). 2020年9月17日閲覧。
  8. ^ a b 「叙位叙勲(7日) 東京」『朝日新聞・朝刊・東京』1990年8月8日。 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  9. ^ a b 詩歌の道”. 井上事務機事務用品. 2020年9月17日閲覧。
  10. ^ 詩歌(しいか)の道”. 立川市. 2020年9月17日閲覧。