中野有光
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中野 有光(なかの ありみつ、1865年11月23日〈慶応元年10月6日[1]〉 - 1939年〈昭和14年〉4月11日[2])は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、警察官僚。統監府・朝鮮総督府官僚。関東都督府官僚。広島県福山市長。幼名は輝松[3]。旧姓は広川[4]。
経歴
[編集]安芸広島藩領御調郡、のちの美ノ郷村(現広島県尾道市)出身[1]。広川忠蔵の長男として生まれ、のち中野半兵衛の養子となる[4]。1894年(明治27年)和仏法律学校を卒業し、1902年(明治35年)高等文官試験に合格[1]。翌年2月、山梨県属兼警部となり、警視庁属兼警部、大阪府警視を経て、1907年(明治40年)7月、富山県事務官に任じ警察署長となる[1]。1909年(明治42年)2月、渡韓し警視となり、内務書記官を兼任したのち、統監府事務官兼警視、朝鮮総督府事務官を歴任し、1917年(大正6年)10月、青島守備軍民政部事務官に転じ、青島民政署長を任ぜられた[1]。1919年(大正8年)1月、関東都督府事務官となり大連民政署長となった[1]。民政署長のとき、阿片事件に関与し懲役1年4か月の判決を受けた[5]。
1921年(大正10年)3月、休職[1]。1924年(大正13年)1月23日付で正五位返上を命じられ、同1月21日付で勲三等及び韓国併合記念章、大礼記念章を褫奪された[6]。1927年(昭和2年)9月7日、福山市長に就任した[1]。1939年(昭和14年)4月、死去[2]。墓所は福山市明王院[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第11版 下』人事興信所、1937年 。
- 帝国自治協会『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年。
- 福山市制六十周年記念誌「風雪に耐えて」編纂会 編『風雪に耐えて』福山市制六十周年記念誌「風雪に耐えて」編纂会、1977年 。