中華電影公司
表示
種類 | 股份有限公司 |
---|---|
市場情報 | 消滅 |
略称 | 中華電影、華影 |
設立 | 1939年6月27日 |
業種 | 商社 |
事業内容 | 映画の製作・配給 |
代表者 |
褚民誼 川喜多長政 |
主要株主 |
汪兆銘政権 満洲映画協会 |
中華電影股份有限公司(ちゅうかでんえいふんこゆうげんこうし)は、かつて中華民国・上海(現在の中華人民共和国・上海市)に存在した国策映画会社である。一般には中華電影公司(ちゅうかでんえいこうし)と呼ばれ[1]、中華電影(ちゅうかでんえい)、華影(かえい)と略す。1939年(昭和14年)設立、1943年(昭和18年)からは合併して中華聯合電影公司(ちゅうかれんごうでんえいこうし)。
略歴・概要
[編集]1939年(昭和14年)6月27日、上海に設立される。汪兆銘政権が50%、満洲映画協会が25%、残りの25%は日本の民間映画会社による投資組合が出資した。董事長(代表)は褚民誼、副董事長として日本から送り込まれたのは東和商事(現在の東宝東和)の川喜多長政であった[2]。川喜多は経営の実権を持ち、当初は既成の上海映画に勝る製作ができるわけがないとして、配給事業に徹するつもりであったという。
東宝映画東京撮影所との提携製作による伏水修監督の『支那の夜』(1940年)、大村英之助の芸術映画社との提携製作による石本統吉・亀田利喜夫・八名正監督の『珠江』(1942年)、中国聯合影業公司との合作による卜万蒼監督の『木蘭従軍』(1942年)が劇映画の代表作とされる。
1943年(昭和18年)5月、中国聯合影業公司等と合併して中華聯合電影公司(ちゅうかれんごうでんえいこうし)となる。
1945年(昭和20年)の終戦とともに消滅した。
現在は、同社の撮影所は、上海戯劇学院が「新実験空間」として使用している。
フィルモグラフィ(日本公開作品)
[編集]- 『支那の夜 前篇』 : 監督伏水修、製作東宝映画東京撮影所/中華電影、1940年6月5日公開
- 『支那の夜 後篇』 : 監督伏水修、製作東宝映画東京撮影所/中華電影、1940年6月15日公開
- 『上海の月』 : 監督成瀬巳喜男、製作東宝映画東京撮影所/中華電影、1941年7月1日公開
- 『珠江』 : 監督石本統吉・亀田利喜夫・八名正、製作芸術映画社/中華電影、配給日本映画社、ドキュメンタリー映画、1942年2月14日公開
- 『戦ふ兵団』 : 監修支那派遣軍報道部、製作中華電影/日本映画社、配給日本映画社、ドキュメンタリー映画、1942年3月4日公開
- 『潰滅する重慶陣営』 : 監修支那派遣軍報道部、製作日本映画社/中華電影、配給映画配給社、ドキュメンタリー映画、1942年7月9日公開
- 『木蘭従軍』 : 監督卜万蒼、製作中国聯合影業公司華成製片厰/東和商事中華電影支社、1942年7月23日公開
- 『大陸新戦場 浙贛作戦の記録』 : 監修陸軍省報道部、製作日本映画社/中華電影、ドキュメンタリー映画、1943年7月1日公開
- 『万世流芳』 : 監督張善琨・朱石麟・馬徐維邦・楊小仲・卜万蒼、製作満洲映画協会/中華電影、配給映画配給社、1944年8月10日公開
- 『在支米空軍撃滅の記録』 : 監督桑野茂・斉藤久、製作日本映画社/中華電影、ドキュメンタリー映画、1944年8月17日公開
- 『狼火は上海に揚る 春江遺恨』 : 監督稲垣浩、製作大映/中華電影、配給映画配給社、1944年12月28日公開
おもな経営者・社員
[編集]- 褚民誼 - 董事長(汪兆銘政権)
- 川喜多長政 - 副董事長(東和商事出身)
- 松崎啓次 - 製作部長(東宝映画出身)
- 劉吶鴎 - 製作部次長(台湾出身)、1940年9月3日暗殺
- 中川信夫 - 監督
- 秘田余四郎 - 字幕翻訳
- 筈見恒夫 [1]
- 清水晶
- 野口久光 - (東和商事出身)
- 不破祐俊 - 内務省情報局元課長。映画法策定者
脚注
[編集]- ^ a b 筈見、p.1.
- ^ 財団について 長政・かしこ・和子、川喜多記念映画文化財団、2012年6月1日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 中華電影 - 日本映画情報システム (文化庁)
- 中華電影 - 映連データベース (日本映画製作者連盟)
- 1940年公開作品一覧 518作品、1941年公開作品一覧 275作品、1942年公開作品一覧 125作品、1944年公開作品一覧 66作品 - 日本映画データベース