中村聡一
中村 聡一(なかむら そういち)は、日本のテニスプレイヤー、ファイナンシャル・アドバイザー、リベラルアーツ教育研究者。甲南大学マネジメント創造学部 マネジメント創造学科准教授[1][2]。
経歴
[編集]テニス
[編集]関東ジュニアテニス選手権U12シングルスに優勝した際に、飯田藍が主管するグリーンテニスクラブ町田鶴川のジュニア育成プログラムに勧誘される。飯田藍が東京都調布市の桜田倶楽部[3]に移籍したことから、中村も練習の場を移した。桜田倶楽部としては、第一期のテニス選手である。
全仏オープンやウインブルドン等の国際大会では、ATPランキングでトップ10入りした強豪選手らと戦い、アモス・マンスドルフ(イスラエル)やアンドレイ・チェスノコフ(ロシア)らに勝利している。ITF世界ジュニアランニングは最高7位[4]。
その後、日本テニス協会にプロ登録し、テニス選手としての活動を継続する。
国内大会は、全日本テニス選手権だけに照準を絞り、16歳から23歳まで8回連続で本選出場している。1986年大会では、桜田倶楽部同門の丸山薫との一回戦を制してから、田村伸也、竹内映二、福井烈、坂本真一ら強豪選手を破って決勝に進出している[5]。
ファイナンシャル・アドバイザー
[編集]コロンビア大学の学部課程を優等の成績で卒業する。その後は、やはりコロンビア大学のグローバル政策大学院でファイナンスを専攻する[2]。卒業後、ファイナンシャル・アドバイザーとして、国際畑でビジネス系のキャリアを積む[2][6]。
KPMG社で当時は若手の日本人パートナー(幹部社員)[7]。日立製作所による海外コンピュータ販社再編プロジェクト[8]や、米国ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティ(NGS)の日経BP社との合弁プロジェクトなどの国際案件に関わる[2]。
リベラルアーツ教育研究者
[編集]甲南大学着任から数年後、リベラル・アーツをテーマとするゼミ講座を開始[2][9]。当初は、比較的少人数の学生と主要図書を輪読するスタイルであった。数年して、サバティカルの機会を得たことから、本格的にリベラルアーツ教育の研究に打ち込むようになる[9]。
著作
[編集]- 『ニューエリートのすすめ・自分の可能性を切り拓く思考法』PHP研究所、2000年8月
- 『企業買収の焦点・M&Aが日本を動かす』講談社<講談社現代新書>、2005年11月
- 『教養としてのギリシャ・ローマ ~ 名門コロンビア大学で学んだリベラルアーツの真髄』東洋経済新報社、2021年5月
- 『「正義論」講義』東洋経済新報社、2023年2月
脚注
[編集]- ^ 中村聡一 - reserchmap
- ^ a b c d e 中村聡一 - 甲南大学(「教員・研究者紹介」、2021年6月20日閲覧)
- ^ 桜田倶楽部の歴史
- ^ 『テニスマガジン』1982年4月号・5月号・6月号[要ページ番号]
- ^ 『テニスマガジン』1986年10月号(全日本選手権特集)、[要ページ番号]
- ^ 「土曜ほっとスポーツ 政、官、学、産業界などの有志が賛同「テニス好きがファンクラブ結成へ」"活性化の提言"─世界的なコンサルティング会社KPMGで取締役を務める元全日本チャンピオン中村聡一さん」毎日新聞1998年12月26日 7面
- ^ James Paradise (Dow Jones Newswires) (1999年2月19日). “Foreign Mergers in Japan Could Escalate This Year -said Soichi Nakamura, a partner at KPMG Corporate Finance, Tokyo, an investment and transaction-advisory group, and a unit of the international accounting giant KPMG”. ウォールストリート・ジャーナル 2021年6月25日閲覧。
- ^ 「欧州販売体制を再編~汎用電算機、1国1社に」日本経済新聞1993年11月4日夕刊[要ページ番号]
- ^ a b 「あとがき」『教養としてのギリシャ・ローマ~名門コロンビア大学で学んだリベラルアーツの真髄』東洋経済新報社、2021年、pp.334 - 341
参考文献
[編集]- 「《インタビュー》KPMGパートナー中村聡一」『共同ウィークリー』共同通信社、1999年1月18日、Page.17