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中村清右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村 清右衛門(なかむら せいえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の人物。赤穂藩小納戸役(100石)。

元禄14年(1701年)3月14日、田村邸で切腹した浅野長矩の遺体を田中貞四郎らと共に引き取る。この時、片岡高房が二度斬りされた首と胴体を確認した。中村ら6名は長矩の遺骸を泉岳寺に埋葬した。同年11月3日、大石良雄らと共に前川忠太夫宅に入る。

年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた[1]。元禄15年(1702年)12月4日に脱盟を申し出て逐電。 大石宛の口上書[2]が残っている。

後史

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赤穂にあった中村清右衛門の屋敷は、永井家赤穂藩では使用されず、森家が建物を破壊した。

建造物の残骸は放置され、跡地はごみの投棄場所となり近代には完全に埋め立てられていた[3]。 近年の発掘調査で遺構(井戸の跡など)が出土している。

創作

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講談などでは、赤穂事件後の元禄16年(1703年)清右衛門が三十歳のとき、熊本藩で礒貝正久の介錯をした小姓組・吉富五左衛門にさんざん細川家の悪口を言い、口論になり吉富に斬りつけ重傷を負わせる。中村は神田明神下で剣術道場を開き、孝行息子という事で「娘を嫁に貰ってほしい」などと評判になる。

井上ひさしの『不忠臣蔵』では、道場主の中村は巷をうろつく「お犬様」に腹を立て、斬り殺す話になっている。

脚注

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  1. ^ 谷口, p. 124.
  2. ^ 中村清右衛門口上「老母儀殊の外難儀仕候段申越候得ば此段も不便に奉存難忍候」(赤穂大石神社)
  3. ^ 平成26年度赤穂城下発掘調査「有年原・有年牟礼地区分布調査」(赤穂市教育委員会 平成27年4月21日)

参考文献

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  • 谷口眞子『赤穂浪士の実像 歴史文化ライブラリー 214』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642056144 

関連項目

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