中村政美
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基本情報 | |
---|---|
出身地 | 日本 長崎県 |
生年月日 | 1924年4月8日 |
没年月日 | 1945年1月29日(20歳没) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、三塁手[1]、右翼手[2] |
プロ入り | 1943年 |
初出場 | 1943年4月17日[3] |
最終出場 | 1944年8月28日[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日[4] - 1945年1月29日[5])は長崎県出身のプロ野球選手。
来歴・人物
[編集]長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)在学中に、投手として1941年夏の甲子園長崎県大会に出場し、決勝で鎮西学院を下して優勝した。(その後に参加予定だった北九州大会及び本大会は、戦局の悪化により中止となった。)
1943年に東京巨人軍に入団。背番号は34[6]。この背番号は1970年4月2日に、金田正一が付けていた番号として永久欠番になったが、巨人軍で初めて背番号34を付けたのが中村だった。投手として入団するも、戦争の激化により応召される選手が続出し、巨人軍と言えども選手不足に陥る状況にあったため、野手(三塁手)としての出場の方が多くなっていった。
10代の若さで入団した故、最初は苦労していた面もあったが、1943年終盤より台頭し始めた。1943年11月7日、このシーズンの最終戦でもある阪神戦(後楽園球場)で初めて4番に座った[3](巨人軍第10代4番打者となる[5])。翌1944年シーズンは開幕戦を含めた26試合(全35試合中)で4番を任され、戦時中の物資不足で公式球の質が悪化していた中で打率.220、本塁打1本(ちなみにこの年の本塁打王は、金山次郎〈産業〉の3本)の成績を残した。シーズン中盤には、右翼手としても出場した。
1944年シーズン終了後に応召。翌1945年1月29日、戦死した[5](死没場所は不明)。享年20。東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑に彼の名が刻まれている。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1943 | 巨人 | 20 | 12 | 4 | 2 | 0 | 4 | 5 | -- | -- | .444 | 381 | 87.0 | 63 | 1 | 69 | -- | 1 | 47 | 0 | 0 | 34 | 22 | 2.28 | 1.52 |
1944 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 57 | 12.0 | 10 | 1 | 9 | -- | 1 | 7 | 1 | 0 | 6 | 5 | 3.75 | 1.58 | |
通算:2年 | 22 | 13 | 5 | 2 | 0 | 4 | 6 | -- | -- | .400 | 438 | 99.0 | 73 | 2 | 78 | -- | 2 | 54 | 1 | 0 | 40 | 27 | 2.45 | 1.53 |
年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1943 | 巨人 | 30 | 77 | 61 | 3 | 11 | 2 | 1 | 0 | 15 | 6 | 0 | 0 | 0 | -- | 16 | -- | 0 | 9 | -- | .180 | .351 | .246 | .597 |
1944 | 33 | 136 | 118 | 8 | 26 | 6 | 1 | 1 | 37 | 17 | 2 | 0 | 0 | -- | 18 | -- | 0 | 6 | -- | .220 | .324 | .314 | .638 | |
通算:2年 | 63 | 213 | 179 | 11 | 37 | 8 | 2 | 1 | 52 | 23 | 2 | 0 | 0 | -- | 34 | -- | 0 | 15 | -- | .207 | .333 | .291 | .624 |
背番号
[編集]- 34 (1943年)[6]
- 1944年は、全球団で背番号制度を廃止。
脚注
[編集]- ^ [BRM] 選手成績 - 中村 政美 : プロ野球記録博物館
- ^ a b 1944年巨人 スタメンアーカイブ
- ^ a b 1943年巨人 スタメンアーカイブ
- ^ 鎮魂の碑(野球殿堂博物館)
- ^ a b c 巨人軍10代目4番打者 中村政美 : ボンビーメンブログ
- ^ a b 読売ジャイアンツ 背番号34 - 背番号Maniax -