中村修三
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名前 | ||||||
カタカナ | ナカムラ シュウゾウ | |||||
ラテン文字 | NAKAMURA Shuzo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1959年1月6日(65歳) | |||||
身長 | 166cm[1] | |||||
体重 | 63kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
???? - ???? | 旭高等学校 | |||||
???? - ???? | 青山学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1981-1990 | 三菱重工 | 92 | (11) | |||
監督歴 | ||||||
1992-1994 | 青山学院大学 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2020年10月8日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
中村 修三(なかむら しゅうぞう、1959年1月6日[2] - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。息子はサッカー選手である中村祐人。
来歴
[編集]1981年に日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部に入る。チームでのポジション争いが激しく、フルに出場する事は少なかったが、終盤の運動量は相手にとっては嫌な存在だった。5チームに優勝の望みを残していた1982年のリーグ最終節、2位につけていた三菱は日立に大勝し逆転優勝した。その試合において自らが決勝点を挙げている。チームの同期には原博実、北里さとしがいる。また、1982年と1983年にはJSL選抜チームでもプレーした。
引退後は浦和レッズのスタッフとして尽力、広報部部長や強化部部長を経て2006年から2008年と2018年から2019年の2度にわたりゼネラルマネージャーを務めた[2][3]。2020年には母校である青山学院大学のサッカー部総監督に就任[4]した。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1981 | 三菱 | 19 | JSL1部 | 0 | 0 | ||||||
1982 | 9 | 2 | |||||||||
1983 | 11 | 1 | |||||||||
1984 | 13 | 12 | 0 | ||||||||
1985 | 15 | 2 | |||||||||
1986-87 | 10 | 9 | 1 | ||||||||
1987-88 | 5 | 0 | |||||||||
1988-89 | 17 | 3 | |||||||||
1989-90 | JSL2部 | 14 | 2 | ||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 78 | 9 | |||||||
日本 | JSL2部 | 14 | 2 | ||||||||
総通算 | 92 | 11 |
- JSL選抜チーム(1982年 1試合/0得点、1983年 4試合/1得点)
脚注
[編集]- ^ a b 日本サッカーリーグ『JSLイヤーブック1989~1990』南雲堂、1989年、109頁。ISBN 4-523-31029-7。
- ^ a b “強化体制変更のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE. 2020年10月8日閲覧。
- ^ “2020シーズン強化体制のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE. 2020年10月8日閲覧。
- ^ “中村修三氏 総監督就任 / 村杉聡史氏 コーチ就任のお知らせ”. 青山学院大学体育会サッカー部オフィシャルサイト. 2020年10月8日閲覧。
参考文献
[編集]- 『サッカーマガジン』1983年1月号/ベースボール・マガジン社発行