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藤原宗家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中御門信能から転送)
 
藤原宗家
時代 平安時代後期
生誕 保延5年(1139年
死没 文治5年閏4月22日1189年6月7日
改名 信能(初名)→宗家
別名 中御門大納言
官位 正二位権大納言
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家中御門流松木家
父母 父:藤原宗能、母:藤原長実の娘
兄弟 頼衡宗親、尊誉、玄壽、宗家成能光能頼輔、宗命、宗縁、宗隆、宗覚、寛宗、玄修、能忠、藤原季行
正室:八条院按察藤原俊成の娘)
藤原光頼の娘、藤原能定の娘
宗経、宗快、宗厳後白河院官女、北陸宮
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藤原 宗家(ふじわら の むねいえ)は、平安時代後期の公卿内大臣藤原宗能の子。官位正二位権大納言

経歴

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保延5年(1139年)、誕生。初名は信能長寛2年(1164年)まで)。

永治元年(1141年)に従五位下に叙され、久安5年(1149年)に従五位上・侍従に任官。久安7年(1151年)に正五位下に進む。久寿2年(1155年)に右近衛少将に任ぜられ、翌年に従四位下・左近衛少将に任じられ、続いて従四位上に進む。保元3年(1158年)に正四位下・左近衛中将、翌年には蔵人頭を兼ねて頭中将となり、更に中宮権亮を兼ねる。永暦元年(1160年)に参議に任ぜられ、応保2年(1162年)に従三位に進む。長寛2年(1164年)に正三位に進む。

永万2年(1166年)に六条天皇が即位すると、権中納言に任ぜられ、仁安3年(1168年)に中納言に転じる。承安2年(1172年)に従二位安元2年(1176年)に正二位に進み、治承3年(1179年)に権大納言に任ぜられる。文治5年(1189年内府九条良通)の法事に参会[1]、祈年穀奉幣の上卿を務める[2]など、活動をしていたが閏4月に腹病のために薨去。享年51。出家したともいわれる[3]

父より神楽和琴の秘伝を継ぎ、松木家(中御門家)を楽道の家として発展させる基礎を築いた。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 永治元年12月26日(1142年1月24日):従五位下(御即位次)
  • 久安5年(1149年)2月13日:従五位上(朝覲行幸。皇后宮)、6月6日:侍従
  • 久安7年(1151年)正月6日:正五位下(父宗能卿平野大原野行幸行事賞追叙)
  • 久寿2年(1155年)4月4日:右近衛少将
  • 久寿3年(1156年)正月7日:左近衛少将、4月6日:従四位下(院久安三御給。除目次)
  • 保元元年11月28日(1157年1月10日):従四位上(嘉皇門院去年未給。除目次)
  • 保元2年(1157年)正月24日:尾張守
  • 保元3年(1158年)正月6日:正四位下(美福門院當年御給)、27日:左近衛中将
  • 保元4年(1159年)2月21日:中宮権亮、4月6日:蔵人頭
  • 永暦元年(1160年)4月2日:参議、左兵衛督
  • 永暦2年(1161年)正月23日:丹波権守(下名次)
  • 応保2年(1162年)8月17日:従三位(内大臣坊官)
  • 長寛2年(1164年)6月15日:宗家に名を改む、閏10月13日:正三位(去年石賀行幸行事賞)
  • 長寛3年(1165年)正月23日:右近衛中将
  • 永万2年(1166年越前権守、8月27日:権中納言
  • 仁安3年(1168年)8月10日:中納言
  • 嘉応2年(1170年)2月11日:服解、4月28日:復任
  • 承安2年(1172年)3月29日:従二位(高祖父右大臣俊家永保二八幡賀茂行幸行事賞)
  • 安元2年(1176年)3月6日:正二位(御賀行幸行事賞。院御給)
  • 治承3年(1179年)10月9日:権大納言

系譜

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脚注

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  1. ^ 玉葉』文治5年2月14日条
  2. ^ 『玉葉』文治5年2月24日
  3. ^ 公卿補任』文治5年条
先代
藤原宗能
松木家
4代
次代
藤原宗経