中川銓吉
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月[1] - 1942年9月4日 )は、日本の数学者、学校教授[2][3]。
来歴
[編集]1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ[1][4]、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業[5]。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て[6]、1898年に卒業した[7]。
1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた[8][9]。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された[10]。
1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち[11]、ドイツに留学した[4]。1905年2月27日に帰国した[12]。
1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された[13]。1907年5月21日、数学第一講座を任せられた[14]。この間に正六位を叙された[15]。また同年、論文「ハイパーボリック」を提出し、理学博士号を獲得した[16]。1910年代に幾何学模型を輸入した[17]。
1914年(大正3年)4月26日、東京帝国大学理科大学教授に任命された[18]。1920年数学第一講座を免し、数学第四講座を任せられた[19]。また、1921までに勲三等瑞宝章を[20]、1923年までに勲二等瑞宝章を叙された[21][22]。1935年、設立当初の数学第五講座を任せられた[23]。1937年までに正三位を叙された[24][25]。
1942年9月4日没した[26]。
数学者としては主に射影幾何学や曲面論の研究をし、講義でも幾何学を取り扱った[27]。小島浩や清宮俊雄、矢野健太郎は彼の授業を受けている[28]。
私生活
[編集]千村正晴の長女、秀と結婚した[1]。
栄典等
[編集]- 1898年(明治31年)9月30日、従七位[29]。
- 1899年(明治32年)9月 5日、高等官七等。
- 1900年(明治33年)6月16日、高等官六等[30]。
- 1900年(明治33年)9月21日、正七位[31]。
- 1906年(明治39年)8月10日、従六位[32]。
- 1907年(明治41年)11月7日、高等官五等[33]。
- 1911年(明治44年)6月28日、勲六等瑞宝章[34]。
- 1914年(大正3年) 6月30日、従五位[35]。
- 1915年(大正4年) 6月26日、勲五等瑞宝章[36]。
- 1916年(大正5年) 11月4日、高等官二等[37]。
- 1916年(大正5年) 12月1日、正五位[38]。
- 1917年(大正6年) 6月26日、勲四等瑞宝章[39]。
- 1921年(大正10年)11月28日、高等官一等[20]。
- 1922年(大正11年)1月20日、従四位[40][41]。
著作
[編集]- 「非ユークリッド幾何學特にろばちぇふすきー及びぼりあい両氏の研究に尽きて」『東京物理学校雑誌』第228号、1906年。[42]
- 『平面解析幾何学』富山房、1913年。NDLJP:952182。
- 『最新算術教科書』富山房、1919年。NDLJP:949079。
- 竹内端三 共著『新撰解析幾何学教科書 平面之部』富山房、1920年。NDLJP:960384。
- 黒河竜三 共著『高等立体幾何学通論』共立社書店、1932年。NDLJP:1175468。
- 『輓近高等数学講座』 27巻、共立社書店、1935年。NDLJP:1236809。
- 『最新代数 : 増課課程用』富山房、1935年。NDLJP:1275153。
- 『新編女子幾何』冨山房、1937年。
- 『新編女子算術教授資料』富山房、1938年。NDLJP:1275487。
- 『近世綜合幾何学演習』共立出版、1948年。NDLJP:1063414。
- 冨山房五十年記念「教科書に着手する迄の思ひ出噺」[43]。
関連項目
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『人事興信録』人事興信所、1921年、28頁。NDLJP:1704027。
- ^ 『日本紳士録 第7版』交詢社、1901年、358頁。NDLJP:780096。
- ^ 古林亀治郎『現代人名辞典』中央通信社、1912年、53頁。NDLJP:779591。
- ^ a b “中川銓吉 (第8版)”. 『人事興信録』データベース. 2024年9月21日閲覧。
- ^ 『官報』3608号、大蔵省、1895年7月10日。NDLJP:2946883。
- ^ 『官報』4208号、大蔵省、1897年7月13日。NDLJP:2947495。
- ^ 『官報』4509号、大蔵省、1898年7月12日。NDLJP:2947798。
- ^ 『官報』 4538巻、大蔵省、1898年8月15日。NDLJP:2947827。
- ^ 『職員録 明治32年現在(甲)』印刷局、1899年、503頁。NDLJP:779776。
- ^ 『官報』4856号、大蔵省、1899年9月6日。NDLJP:2948146。
- ^ 『官報』5514号、大蔵省、1901年11月18日。NDLJP:2948815。
- ^ 『官報』6503号、大蔵省、1905年3月8日。NDLJP:2949833。
- ^ 『官報』6423号、大蔵省、1904年11月26日。NDLJP:2949747。
- ^ 『官報』7166号、大蔵省、1907年5月22日。NDLJP:2950512。
- ^ 『官報』8401号、大蔵省、1911年6月24日。NDLJP:2951758。
- ^ 『官報』8413号、大蔵省、1911年7月8日。NDLJP:2951770。
- ^ “幾何学模型の歴史”. 東京大学大学院数理科学研究科理学部数学科・理学部数学科. 2024年9月21日閲覧。
- ^ 『官報』522号、大蔵省、1914年4月28日。NDLJP:2952622。
- ^ 『官報』2477号、大蔵省、1920年11月3日。NDLJP:2954592。
- ^ a b 『官報』2798号、大蔵省、1921年11月29日。NDLJP:2954914。
- ^ 『官報』3199号、大蔵省、1923年4月2日。NDLJP:2955321。
- ^ 『官報』57号、大蔵省、1927年3月11日。NDLJP:2956516。
- ^ 『官報』2488号、大蔵省、1935年4月22日。NDLJP:2958967。
- ^ 『官報』3089号、大蔵省、1937年4月22日。NDLJP:2959572。
- ^ 『官報』3249号、大蔵省、1937年10月29日。NDLJP:2959735。
- ^ 『官報』4698号、大蔵省、1942年9月5日。NDLJP:2961200。
- ^ 『東京大学百年史 部局史 2』東京大学百年史編集委員会、1987年。NDLJP:12114631。
- ^ 矢野健太郎『一幾何学者の回想 上 (数セミ・ブックス ; 1)』日本評論社、1892年。NDLJP:12223244。
- ^ 『官報』 4578巻、大蔵省、1898年10月1日。NDLJP:2947867。
- ^ 『官報』5086号、大蔵省、1900年6月18日。NDLJP:2948380。
- ^ 『官報』5169号、大蔵省、1900年9月22日。NDLJP:2948463。
- ^ 『官報』6936号、大蔵省、1906年8月11日。NDLJP:2950277。
- ^ 『官報』7310号、大蔵省、1907年11月8日。NDLJP:2950656。
- ^ 『官報』8405号、大蔵省、1911年6月29日。NDLJP:2951762。
- ^ 『官報』575号、大蔵省、1914年7月1日。NDLJP:2952678。
- ^ 『官報』871号、大蔵省、1915年6月28日。NDLJP:2952977。
- ^ 『官報』1280号、大蔵省、1916年11月7日。NDLJP:2953393。
- ^ 『官報』1301号、大蔵省、1916年12月2日。NDLJP:2953414。
- ^ 『官報』1471号、大蔵省、1917年6月27日。NDLJP:2953584。
- ^ 『官報』3608号、大蔵省、1922年1月21日。NDLJP:2954955。
- ^ 『官報』3068号、大蔵省、1922年10月21日。NDLJP:2955186。
- ^ るーしぇ、こんぶるーす 著、小倉金之助 訳『初等幾何學 第2卷 空間之部』山海堂出版部、1915年、784頁。NDLJP:1082037。
- ^ “冨山房五十年”. 昭和館デジタルアーカイブ. 2024年9月21日閲覧。
- ^ “統計図書館コラム”. 2024年9月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 中島優二『受験者必携』近世社、1906年、138頁。NDLJP:814262。
- 『日本学術協会報告』日本学術協会、1926年、29頁。NDLJP:984234。
- 阿部八代太郎『立體幾何學』弘道館、1930年、2頁。NDLJP:1083482。
- 『高数研究 1(7)』考へ方研究社、1937年。NDLJP:1888635。
- 暁烏敏『清沢満之の文と人』大東出版社、1939年、279頁。NDLJP:1054211。
- 小倉金之助「50年前入会のころ」『創立80周年特集』第9巻第2号、1957年、doi:10.11429/sugaku1947.9.65。
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