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中川良一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中川 良一
中川良一(26歳当時)
生誕 1913年4月27日
東京府(現・東京都
死没 (1998-07-30) 1998年7月30日(85歳没)
国籍 日本の旗 日本
教育 東京帝国大学
子供

子: 中川脩一

子: 中川正雄
父: 中川正左
業績
専門分野 機械工学
所属機関 自動車技術会
勤務先 中島飛行機
プリンス自動車工業
日産自動車
東京大学工学部(講師)(1954年~1965年)[1]
設計 誉エンジン
成果
受賞歴 日本自動車殿堂 殿堂者(2018年)[1]
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中川 良一(なかがわ りょういち、1913年大正2年)4月27日1998年平成10年)7月30日)は、日本の航空技術者、自動車技術者。中島飛行機の設計主任として誉エンジンを手掛け、戦後はプリンス自動車を経て日産自動車の専務を務めた。

経歴

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東京府(現・東京都)に鉄道官僚中川正左の長男として生まれる[2]

1936年昭和11年)東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後、中島飛行機に入社[2]栄エンジンの20型以降への改良に従事し、空冷エンジンの限界と言われた1000馬力の壁を突破する[3]1941年(昭和16年)設計主任を務めた誉エンジンの試作1号機が完成[4]。中島式低圧燃料噴射の特許を取得[4]し、誉エンジン[5]ほか中島製のエンジン全種に採用。

1945年(昭和20年) - 終戦により、連合軍総司令部(GHQ)命令により航空機産業は禁止され、12社に解体された旧中島飛行機の一つである富士精密工業(のちのプリンス自動車工業)にて、自動車技術者としての第二の人生を開始し、特に「エンジン屋」として、プリンス技術部門を統括した。

富士精密~日産自動車での経歴

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  • 1951(昭和26年) - 富士精密工業取締役[6]
  • 1966年(昭和41年)8月、プリンス自動車工業合併により日産自動車常務取締役[6]
  • 1969年(昭和44年) - 日産自動車専務取締役[6]
  • 1979年(昭和44年) - 日産自動車技術顧問[6]

社外での経歴

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  • 1951(昭和26年) ~1965年(昭和40年)まで東京大学工学部航空機原動機学科講師[6]
  • 1961年(昭和36年) - 工学博士(東京大学)[1]
  • 1961年(昭和36年) - 日本機械学会副会長[6]
  • 1972年(昭和47年)~1976年(昭和51年)自動車技術会会長[6]
  • 1972年(昭和49年)~1980年(昭和55年)国際自動車技術会連合(FISITA)副会長[6]
  • 1976年(昭和51年) - 米国自動車技術会(SAE)名誉会員[6]
  • 1977年(昭和52年)~1984年(昭和59年)日本電子機器取締役会長[6]
  • 1998年(平成10年)7月30日、死去。

関連項目

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出典

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参考文献

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  • 『航空機から自動車へ : 一内燃機関技術者の回想』 中川良一著 日本機械学会 1982年2月5日 doi:10.1299/jsmemag.85.759_214
  • 『悲劇の発動機「誉」‐天才設計者中川良一の苦闘』 前間孝則著 草思社 2007年7月31日 ISBN 978-4-7942-1513-0
  • 『プリンス自動車の光芒』 桂木洋二著 グランプリ出版 2003年10月22日 ISBN 4-87687-251-1
  • 中川良一,水谷総太郎『中島飛行機エンジン史 : 若い技術者集団の活躍』酣灯社、1985年5月。NDLJP:12683708 
  • トキコ株式会社社史編纂委員会 編『トキコ社史』トキコ、1967年、266頁。NDLJP:2517618/124 
先代
齋藤尚一
自動車技術会会長
第10代:1972年 - 1975年
次代
豊田章一郎