中島祐八
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中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、嘉永7(安政元)年7月18日[1](1854年8月11日)- 大正2年(1913年)11月14日[2])は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→憲政本党→立憲国民党)。
経歴
[編集]上野国佐位郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)出身。豪農・先代中島祐八(2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子)の長男として生まれ[3]、1874年(明治7年)に副区長、1877年(明治10年)に学区取締、1881年(明治14年)に県会議員に就任した[4]。1883年、「上野新聞」を発刊[4]。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した[5]。1890年(明治23年)の愛国公党の結党式に参加し、翌年の自由党の結党式にも出席した[5]。また日刊新聞「上州」を発刊した[4]。
1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は大正2年5月補欠当選も含めて7回を数えた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 山中啓一『上毛近世百傑伝(上)』1891年。