中島国男
中島 国男 (なかじま くにお、1905年(明治38年)6月13日 - 1985年(昭和60年)9月24日)は、日本の教育者、地方政治家。幕別町名誉町民。栄典は正六位・勲五等双光旭日章。北海道中川郡幕別町町長を7期28年間歴任した[1]。
略歴
[編集]1905年(明治38年)6月13日に、北海道上川郡当麻村字宇園別一、父:中島岩蔵(岐阜県本巣郡土貴野村出身)、母:中島かん(岐阜県本巣郡土貴野村出身)の長男として生まれた。
父:岩蔵は農業を経営しながら当麻村議会議員、当麻村消防団長を務め、さらに中央乗合自動車株式会社取締役を兼ね、昭和2年には、十勝止若支社(道東バスの前身)を設立(帯広-止若-池田間運行)、また1930年(昭和5年)に名寄支社を設立した。また、母:かんは岩蔵を助けながら荒物雑貨商を営んでいた。
国男は、1911年(明治44年)4月、宇園別尋常小学校に入学、卒業後、永山村永山尋常高等小学校に入学し、1919年(大正8年)3月に同校を卒業した。その後二年間、家の農業に従事したが1921年(大正10年)4月、北海道庁立空知農業学校(現:北海道岩見沢農業高等学校)に入学、1924年(大正13年)3月に同校を卒業し、北海道庁立実業補習学校教員養成所(後の北海道教育大学の母体の一つ)に入学。翌年卒業し、5月に中川郡白人実業補習学校助教諭となった。
戦後の1947年(昭和22年)、幕別青年学校長から公選初の幕別町長選に出馬し当選[1]。以後、1975年(昭和50年)に退任するまで、十勝管内最多の28年間町長を務め、町の発展に務めた[1]。福祉政策にも力を入れ、1970年には十勝管内で唯一の不自由児通園施設「十勝愛育園」(2006年度閉鎖)を幕別町に開設した[2]。1976年8月、名誉町民の称号を贈られた[1]。
1985年に亡くなる。80歳没[1]。
教員時代
[編集]- 1924年(大正13年)4月、北海道庁立実業補習学校教員養成所に入学し、翌1925年(大正14年)3月に卒業し、小学校専科正教員免許を取得した。
- 1925年(大正14年)5月。中川郡白人実業補習学校助教諭。
- 1933年(昭和8年)9月、白人実科農業学校教諭。
- 1935年(昭和10年)4月、北海道公立青年学校(幕別村白人青年学校)教諭。
- 1938年(昭和13年)10月、北海道庁帯広中学校作業科教諭。
- 1939年(昭和14年)5月、興亜青年報告隊十勝・帯広・宗谷・北見隊隊長
- 1944年(昭和19年)4月、北海道公立青年学校長(幕別町白人青年学校長)
- 1946年(昭和21年)4月、幕別村立幕別青年学校長
町長時代
[編集]- 第1期:1947年(昭和22年)~1951年(昭和26年)
- 第2期:1951年(昭和26年)~1955年(昭和30年)
- 1954年(昭和29年)8月17日PM12:37 幕別駅にて昭和天皇全国巡幸:奉迎
- 第3期:1955年(昭和30年)~1959年(昭和34年)
- 第4期:1959年(昭和34年)~1963年(昭和38年)
- 第5期:1963年(昭和38年)~1967年(昭和42年)
- 第6期:1967年(昭和42年)~1971年(昭和46年)
- 第7期:1971年(昭和46年)~1975年(昭和50年)
役職歴
[編集]- 十勝町村会会長
- 北海道町村会副会長
- 北海道国鉄自動車協力会長
- 帯広地区防犯協会連合会長
- 北海道道東工業自動車(株)取締役会長
- 北海道道東バス(株)取締役会長
- 道東自動車工業(株)取締役会長
- 他多数
賞
[編集]- 勲五等双光旭日章
- 幕別町名誉町民
- 北海道教育功績者表彰
- 正六位
: 他多数
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『官報』1985年10月23日 本紙 17611 叙位・叙勲