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中山忠季

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中山 忠季(なかやま ただすえ、?-建久7年1月20日1196年2月20日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族藤原北家師実流(中山家)・中山忠親の次男。母は藤原光房の娘。官位は正四位下頭中将。妻は藤原光長の娘及び藤原時子能円の娘、督局)。子に中山親平[注釈 1]

経歴

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生年は不詳だが、長寛元年(1163年)生まれである同母兄の中山兼宗よりは年下なのは明らかである。幼い頃に従姉の藤原忠子(松殿基房の正室)[注釈 2]の猶子となる[5]侍従右近衛少将などを歴任し、文治4年(1188年)には従四位上に叙され、翌5年(1189年)11月には右近衛中将に任じられている。九条兼実からも寵愛され、建久元年(1190年)に兼実の娘・任子が入内すると、6月に中宮権亮に任じられている。その功によって建久2年(1191年)には正四位下に叙された[6]

建久6年(1195年)7月に蔵人頭に任じられるが、年が明けるた頃には体調を崩し、建久7年1月20日暁に急死した[7]。享年は不詳だが、30歳前後で亡くなったと考えられている。忠季の将来を嘱望していた九条兼実は彼が重篤になると実全法印を忠季邸に派遣して修法をさせていたが[8]、彼の訃報を聞くと「末代之有識」を失ったと嘆いている[7]。一方で、兼実に仕えていた藤原定家は忠季を「表裏謀作して人を覆さんと欲し、能く男女の嬖籠を構え、讒言を専らとす」[4]と嫌悪感を露わにしている[6]

和歌や笛も得意としていたが、何よりも絵を得意としていた(後述)。文治元年(1185年)11月以前に、母方の伯父である藤原光長の娘を妻に迎えている(つまりいとこ婚となる。)[9]。しかし、後鳥羽天皇の寵愛を受けていた源在子の実妹で彼女に従って宮中に仕えていた督局(藤原時子)に熱烈な求愛をして妻に迎え入れる。しかし、彼女が産んだ嫡男・中山親平は建久7年生まれと伝えられており、同年正月に没した忠季は我が子を見ることはなかったと思われる[6]

なお、忠季の没後、妻のうち光長の娘は藤原資家に嫁いで藤原資季を生み、能円の娘・時子は土御門天皇[注釈 3]即位後に典侍に任じられて督典侍と呼ばれ、更に亡夫よりも高い従三位に叙され[10]、後に近衛基通の妾になったと伝えられている[6]

『古今著聞集』に描かれた忠季

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古今著聞集』には忠季の絵の腕前を巡る逸話がいくつか伝えられている。

巻第三第101話

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県召除目の際に用いられる筥文(筥に入れて御前に置く申文)の取り扱い方を巡っては3つの学説があった。建久の頃に権大納言であった藤原頼実は3日間の県召除目のいずれにも出席していたが、頼実は3つの説の作法を1日ごとに実践してどれも間違いがなかった。その余りの見事さに感嘆した頭中将である忠季がその様子を絵に描き残した[6]

なお、忠季は頭中将として最初の県召除目を迎える前に病死しているため、この逸話に事実を含んでいるとすれば、別の機会に頼実の作法を見る機会を得たと考えられている[6]

巻第八第325話

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忠季は督典侍[注釈 4]に思いを寄せ、何度も通おうとしたものの、彼女が心を寄せることはなかった[注釈 5]。ある雪がひどく降っている夜に忠季は自邸から馬に乗って参内した際に、道の途中の風景や雪の趣深さを絵に描き写して絵巻を作成し、六位蔵人に頼み込んで督典侍の元に届けさせた。絵巻を見た督典侍は忠季の胸中をあはれと思ったか、絵そのものに感服したのか、忠季が通うことを許すようになり、忠季と逢瀬を重ねているうちにその子供を宿すようになったのだという[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 母親の縁で後鳥羽上皇の堂上童となってその寵愛を受け、元服後の建暦2年(1212年)に右近衛少将に任じられ[1]、間もなく正五位下に進む[2]。しかし、建保元年(1213年)に病に倒れ、後鳥羽上皇自らが親平邸へ行幸して見舞ったものの[3]、12月2日(1214年1月14日)に18歳の若さで病死した[4]
  2. ^ 中山忠親の実兄・花山院忠雅の娘。
  3. ^ 源在子の子。本来であれば忠季は天皇の叔母の夫としての待遇を受けられた筈であったが、誕生から数か月後に忠季自身は病死しており、代わりに息子の親平が堂上童として召されることになる。
  4. ^ 督局こと藤原時子が典侍になったのは、忠季の死後に土御門天皇が即位した後のことであるため、後世の呼び名である。
  5. ^ 忠季は既にいとこ婚による妻を迎えている一方、督典侍は実姉が天皇の寵愛を受けており(実際に皇位を継承する皇子を生むことになる)、将来的にはより良縁が期待できる立場であった。

出典

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  1. ^ 『明月記』建暦2年10月25日条
  2. ^ 『明月記』建暦2年11月12日条
  3. ^ 建保元年11月30日条
  4. ^ a b 『明月記』建保元年12月2日条
  5. ^ 『玉葉』治承3年3月3日条及び『山槐記』元暦元年7月28日条。
  6. ^ a b c d e f g 角田、1977年
  7. ^ a b 『玉葉』建久7年正月20日条
  8. ^ 『玉葉』建久7年正月18日条
  9. ^ 『玉葉』文治元年11月26日条
  10. ^ 『明月記』建保元年4月13日条

参考文献

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  • 角田文衞「督典侍」『王朝の明暗 平安時代史の研究 第二冊』東京堂出版、1977年、583ー592頁。