コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

チャイニーズ・リポジトリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中国叢報から転送)
チャイニーズ・リポジトリ
The Chinese Repository
第1巻表紙
発売国 清の旗
言語 英語
編集長 イライジャ・コールマン・ブリッジマン
サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ
刊行期間 1832年 - 1851年
テンプレートを表示

チャイニーズ・リポジトリ』(The Chinese Repository )は、1832年5月から1851年にかけて広東で発行されていた英文雑誌。日本では、『支那叢報』(しなそうほう)とも『中国叢報』(ちゅうごくそうほう)とも呼ばれることがある[1]

概要

[編集]

本誌は、アジア地域で活動するプロテスタント宣教師に向けて、中国の歴史文化時事、各種文献を知らしめることを目的として、発行された。世界最初の本格的な中国学の雑誌であり[2]、中国行きを任命された最初のアメリカ人プロテスタント宣教師であるイライジャ・コールマン・ブリッジマンが発案したものだった。本誌では、中国に関する記事以外にも、日本朝鮮東南アジア南アジアに関するものも多く掲載した[1]重要論説、報告、書評などは「Articles」や「Reviews」の欄に掲載し、大型の活字を用いた[3]

刊行開始は1832年5月からで、広東でごく小さな月刊誌として創刊された[3]1835年12月、ブリッジマンと共に発行に携わっていたサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズが危険な状態になった現地からマカオへ退避したため、本誌の印刷もマカオで行うようになった[4]。ブリッジマンは、1847年上海へ向かうまで編集長を務めたが、記事の寄稿はその後も続けた。後任は、1848年9月までは、ジェームズ・グレンジャー・ブリッジマン(James Granger Bridgman )が務め、その後は、サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズが引き継いだ[5]

本誌は、1851年12月に発行を停止した[4]。最終号では、168ページに及ぶ総索引が付加された[3]。印刷部数は全部で21,000冊といわれているが[3]、そのうちの6,500冊は、1856年12月に広東で発生した火災で焼失したとされている[3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b 吉川雅之「レッグ編Lexilogusに記される粤語音の表記と体系」『東洋文化研究所紀要』第160巻、東京大学東洋文化研究所、2011年12月、228.注1、CRID 1390853649554445184doi:10.15083/00026883ISSN 05638089 
  2. ^ Michael C. Lazich, "American Missionaries and the Opium Trade in Nineteenth-Century China", Journal of World History, Vol.17, No.2, 2006年6月, 英語, pp.197–223, doi:10.1353/jwh.2006.0040, JSTOR 20079374, S2CID 144957722.
  3. ^ a b c d e 宮田和子 「A.D.グリング編、対訳漢和英字書 Eclectic Chinese-Japanese-English Dictionary (1884) の参考文献をめぐって」(PDF) 『或問』第22号(2012年10月)、近代東西言語文化接触研究会、p.84.
  4. ^ a b 八耳俊文 「入華プロテスタント宣教師と日本の書物・西洋の書物」(PDF) 『或問』第9号(2005年5月)、近代東西言語文化接触研究会、p.31.
  5. ^ Michael Poon, "CSCA: A Note on The Chinese Repository, Twenty volumes, Canton, 1832-1851", 2004年9月, 英語, Archived(2008年8月20日) at the Wayback Machine.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]