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中井金三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中井金三(なかい きんぞう、1883年8月20日 - 1969年2月9日)は、日本の洋画家

前田寛治河本緑石らとともに鳥取中部の芸術団体「砂丘社」を創設。倉吉中学(現倉吉東高校)、倉吉高等女学校(現倉吉西高校)で教員を務め、郷土の芸術文化の振興に貢献した。

人物・略歴

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1883年明治26年)、久米郡小鴨村大字中河原(現倉吉市中河原)で生まれる。1897年(明治30年)に家族で上京。杉浦重剛の称好塾に門下生として入り、日本中学(現日本学園)を卒業。日本中学では、真野紀太郞に教わる。白馬会研究所で和田英作湯浅一郎から絵画の基礎を学び、1905年(明治38年)、東京美術学校西洋画科に入学する。黒田清輝の指導を受け、卒業制作「河岸」は、田辺至に次ぐ二席の評価を得る[1]。同級生には、藤田嗣治、香田勝太らがいた。東京美術学校在学中、1909年(明治42年)、画題を求めて竹島に渡り[2]、作品「アシカ狩り」「竹島風景」を制作した。

東京美術学校卒業後、家業の倒産で帰郷する。倉吉中学に勤める傍ら、美校受験を目指していた前田寛治を自宅で指導した。中井の自宅には芸術を志す若者たちが集まるようになり、倉吉中学の教え子らを中心に、1920年大正9年)年、芸術団体「砂丘社」が創設された。「砂丘社」は大正期から昭和初期にかけて精力的に活動し、郷土の芸術・文化の発展に寄与した。自宅にアトリエを構え庭でバラを栽培し、明るい色彩のバラの絵をよく描いた[3]

脚注

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参考文献

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  • 倉吉博物館編『中井金三』倉吉博物館発行、1975年。
  • 倉吉博物館編『ザ・倉吉博物館』倉吉博物館発行、2001年

外部リンク

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