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世阿弥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世阿彌から転送)

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日1443年9月1日)?)は、日本室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。

幼名鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名〈戒名〉は阿弥陀仏〈阿彌陀佛〉号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。

生涯

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世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺[1] [2]で竹窓智厳に師事し、参学した[3][4]

1374年または1375年、観阿弥が新熊野神社で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。

当時の貴族武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、長男の観世元雅伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年佐渡国流刑される。1436年永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている[5]

業績

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世阿弥の作品とされるものには、『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されている。また、『風姿花伝』などの芸論も史料価値だけではなく、文学的価値も高いとされている。

芸道論

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著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。

後世の評価

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2000年平成12年)に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏岸田秀ドナルド・キーン堺屋太一杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、世阿弥は徳川家康織田信長に次いで得票数で3位を獲得した[6]

代表作

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世阿弥は数多くの謡曲を残している。

  • 弓八幡
  • 高砂
  • 老松
  • 実盛
  • 頼政(平家物語)
  • 忠度(平家物語)
  • 清経(平家物語)
  • 敦盛(平家物語)
  • 八島(平家物語)
  • 井筒(伊勢物語)
  • 恋重荷
  • 錦木
  • 当麻
  • 野守(万葉集の歌が典拠)
  • 鍾馗
  • (ぬえ:平家物語)
  • 桜川
  • 花筐(はながたみ)
  • 葦刈(あしかり)
  • 春栄
  • 西行桜(さいぎょうざくら)
  • 檜垣(ひがき)
  • 木賊(とくさ)
  • 松浦佐用姫

著作

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世阿弥は父の遺訓、また自ら会得した芸術論を、「道のため、家のため」(『風姿花伝』)多数書き遺した。

その伝書は秘伝とされ、世阿弥の血筋を承けた越智観世家、そして観世宗家、また女婿禅竹を通じて金春家などが多く所蔵した。室町後期に越智観世家が絶え、観世宗家から入った養子が再興したことで、越智観世が最も多く有していたといわれる伝書はあらかた観世宗家に渡った。またそれとは別に、越智観世から複数の伝書が能を愛好した徳川家康に献上され、家康を通じて細川幽斎織田信忠がこれを手に入れている。

近世にも能楽関係者や一部大名家を除いて、出回ることはほとんどなかった。数少ない例外として、14代大夫の観世清親とともに世阿弥伝書の収集に尽力した15代大夫の観世元章が、1772年に『習道書』に注釈を加えて出版し、座衆の一部に配布したこと、元章の後援者であった田安宗武が観世大夫が所蔵する本の一部を書写したこと、そして1818年柳亭種彦が家康の蔵書であった『申楽談儀』を手に入れ、周囲の文人数名が写本を作ったことが挙げられるが、これ以外に目立った形で世阿弥の著作が表に出ることはなかった。

20世紀に入り、吉田東伍が『世阿弥十六部集』を出版し、当時知られていた世阿弥の伝書を一挙刊行した。以後研究が進み、現在では世阿弥の伝書として二十一種が認められている。

世阿弥の伝書一覧

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  • 風姿花伝
  • 『花習内抜書』
  • 『音曲口伝』
  • 花鏡』(かきょう)
  • 『至花道』
  • 『二曲三体人形図』
  • 『三道』
  • 『曲付次第』
  • 『風曲集』
  • 『遊楽習道風見』
  • 『五位』
  • 九位』 - 河合隼雄日本語には「人間ができている」という表現があるが、これはをつかむような話なのだが、『九位』は幸いに大変参考になり、心理療法家修行にも役立つと述べている[7]
  • 『六義』
  • 『拾玉得花』
  • 『五音曲条々』
  • 『五音』
  • 『習道書』
  • 『夢跡一紙』
  • 『却来華』
  • 『金島書』
  • 世子六十以後申楽談儀
  • 『金春大夫宛書状』

校訂書籍

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  • 吉田東伍校注 『世阿彌十六部集』能楽会、1909年
  • 能勢朝次 『世阿弥十六部集評釈』(『世阿彌十六部集評釋』)
  • 野上豊一郎西尾実校訂 『風姿花伝』(岩波文庫、初版1958年)、ISBN 4003300114
  • 表章校注 『申楽談儀』(岩波文庫、初版1960年、復刊2003年ほか)、ISBN 4003300122
  • 野上豊一郎校注 『能作書・覚習条条・至花道書』(岩波文庫、初版1934年、復刊1989年ほか)
  • 表章、加藤周一校注 『世阿弥・禅竹』(岩波書店、新装版1995年)、ISBN 4000090712
    内容細目: 世阿弥著『風姿花伝』、『花習内抜書』、『音曲口伝』、『花鏡』、『至花道』、『二曲三体人形図』、『三道』、『曲付次第』、『風曲集』、『遊楽習道風見』、『五位』、『九位』、『六義』、『拾玉得花』、『五音曲条々』、『五音』、『習道書』、『夢跡一紙』、『却来華』、『金島書』、『世子六十以後申楽談儀』、『金春大夫宛書状』/禅竹著『六輪一露之記(付二花一輪)』『歌舞髄脳記』『五音三曲集』『幽玄三輪』『六輪一露秘注(文正本・寛正本)』『明宿集』『至道要抄』/解説『世阿弥の戦術または能楽論』(加藤周一)、『世阿弥と禅竹の伝書』(表章)

世阿弥の登場する作品

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評伝
小説・随筆
舞台・戯曲
漫画
映画
アニメ

脚注

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  1. ^ 補巌寺(ふがんじ)”. 奈良県立図書情報館 (2010年). 2024年11月6日閲覧。
  2. ^ 補巌寺(ふがんじ)”. 田原本町役場 地域産業推進課商工観光係 (2024年). 2024年11月6日閲覧。
  3. ^ 世阿弥が金春太夫に返報した「きやよりの書状」に記載されている。
  4. ^ 寳山寺貴重資料電子画像集”. www.nara-wu.ac.jp. 2024年2月27日閲覧。
  5. ^ 田原本町公式ホームページ「補厳禅寺納帳国」
  6. ^ 識者5人が選んだ日本の顔10人家康・信長に支持asahi.comインターネットアーカイブのキャッシュ)
  7. ^ 河合隼雄『対話する生と死』(大和文庫 2006年2月15日発行)
  8. ^ 平成能楽 進取と継承の両輪…世阿弥 生誕650年読売新聞、2013年6月7日

関連項目

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外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、世阿弥に関するカテゴリがあります。
  • 世阿弥 - ジャパンサーチ