世碩
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世 碩(せい せき[1]、拼音: [1]、紀元前5世紀ごろ)は、中国春秋戦国時代の儒家の思想家。孟子や荀子より先に性の善悪を論じた。尊称は世子。
世碩は「性有善有悪説」すなわち「性は善悪の両方を陰陽のごとく有しており、性の養い方次第で善人にも悪人にもなる」という立場をとった[2]。漢代の王充は『論衡』本性篇で、諸子百家から漢代までの性説の歴史を述べるにあたり、世碩のこの説を最初に述べている[2]。
同時代の宓不斉・漆雕開・公孫尼子も同様に性を論じた、と王充は伝えている。このことから、『韓非子』に言及される儒家八派の「漆雕氏之儒」が彼らと比定されることもある[3]。王充自身は性三品説にあたる立場をとりつつ、世碩らに賛意を示している[4]。『孟子』告子上篇では、告子の「性無善無悪説」と並んで、世碩らの流れをくむと見られる説が、或る人の説として言及されている[4]。
著作は、『漢志』に儒家の書として『世子』21篇の存在が記録されている[2]。『論衡』には『養書』(『養性書』とも[2])1篇が言及されている[2]。
出身地は、『論衡』では周とされるのに対し『漢志』では陳とされる[2]。『漢志』では七十子の弟子とされる[2]。