与座岳サイト
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与座岳サイト Yozadake Site | |
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与座岳サイト (1970年) 1970年の空中写真ではミサイルサイトと弾薬庫が黒塗りされている。 | |
沖縄南部の米軍基地 (1970年時点) | |
種類 | FAC6273 |
面積 | 糸満市、八重瀬町 |
床面積 | 121,400 ㎡ |
施設情報 | |
管理者 | アメリカ軍 |
歴史 | |
使用期間 | 返還 1973年 |
与座岳サイト(よざだけサイト、英語: Sedake Training Area Yozadake Site)は、沖縄県糸満市と八重瀬町にあった米軍のホークミサイルサイト。1973年に陸上自衛隊に移管され、南与座高射教育訓練場 (南与座分屯地) となっている。
概要
[編集]同地は琉球石灰岩台地の与座・八重瀬岳の丘陵台地の南側、糸満市と八重瀬町の境界線に位置し、太平洋と東シナ海を望む。1945年の沖縄戦では日本軍の最期の防衛ラインとして激戦地となった。1950年代、アメリカとソ連の核開発が激化するなかで、米軍占領下の沖縄の米軍基地への核兵器配備が急速に進められ[1]、アメリカ陸軍はホークミサイルのミサイルサイトとして同地を接収した。
米陸軍第30防空砲兵旅団が与座岳第一陸軍補助施設 (ホークミサイルサイト) として使用。
- 旧称: 与座岳第1陸軍補助施設 (Yozadake Army Annex No. 1)
- 改称: 与座岳サイト (Yozadake Site)
- 施設番号: FAC6273
- 場所: 糸満市、具志頭村 (八重瀬町)、東風平村 (八重瀬町)
- 具志頭村: 34,000㎡
- 糸満市: 88,000㎡
- 面積: 約121,400㎡
沖縄における米軍ホークミサイルサイト | 施政権移行 (1972年) 後 | |
No. 9 | ボロー・ポイント射撃場 (読谷陸軍補助施設) | 返還 |
No. 10 | 知花サイト | 陸自 白川分屯地に移管 |
西原第二陸軍補助施設 (ホワイト・ビーチ地区) | 陸自 勝連分屯地に移管 | |
No. 12 | 多野岳サイト (羽地陸軍補助施設) | 返還 |
No. 13 | 知念第一サイト | 陸自 知念分屯地 に移管 |
No. 14 | 与座岳サイト | 陸自 南与座分屯地に移管 |
渡嘉敷陸軍補助施設 に2か所 | 返還 国立沖縄青少年交流の家 |
陸上自衛隊への移管
[編集]与座岳のアメリカ陸軍のホーク・ミサイルサイト「与座岳陸軍補助施設」は、沖縄返還協定了解覚書で2つに分割され、第一は与座岳サイト、第二は与座岳陸軍補助施設として継続使用されるA表にリスト化される。また同時にB表に基づき、返還後に陸上自衛隊のミサイルサイトとして段階的に移管される。
1972年以前の名称 | 改称 | 移管先 | |
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FAC6273 | 与座岳第1陸軍補助施設 | 与座岳サイト | B表-8 陸自南与座分屯地 |
FAC6074 | 与座岳第2陸軍補助施設 | 与座岳陸軍補助施設 | B表-9 陸自八重瀬分屯地 |
1973年2月15日 - 85千㎡が陸上自衛隊に移管される。4月16日、南与座高射教育訓練場「南与座分屯地」が開設され、アメリカ陸軍からミサイルサイトの引き継ぎが始まる。
1947年9月30日 沖縄返還協定了解覚書B表に基づき132千㎡が全返還され、米陸軍が撤退し、陸上自衛隊の基地となる。
- 名称: 南与座高射教育訓練場 (南与座分屯地)
- 面積: 132,000㎡
- 場所: 沖縄県島尻郡八重瀬町字安里569
→「南与座分屯地」も参照
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ “写真展「USCARの時代」第7回 – 沖縄県公文書館”. 2022年10月6日閲覧。