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与座岳サイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
与座岳サイト
Yozadake Site
与座岳サイト (1970年)
1970年の空中写真ではミサイルサイトと弾薬庫が黒塗りされている。
沖縄南部の米軍基地 (1970年時点)
種類FAC6273
面積糸満市、八重瀬町
床面積121,400 ㎡
施設情報
管理者アメリカ軍
歴史
使用期間返還 1973年

与座岳サイト(よざだけサイト、英語: Sedake Training Area Yozadake Site)は、沖縄県糸満市八重瀬町にあった米軍のホークミサイルサイト。1973年に陸上自衛隊に移管され、南与座高射教育訓練場 (南与座分屯地) となっている。

米国民政府 (USCAR) は沖縄南部での米軍ホークミサイルサイトの説明を実施した。(1960年3月15日) 沖縄公文書館所蔵

概要

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同地は琉球石灰岩台地の与座・八重瀬岳の丘陵台地の南側、糸満市と八重瀬町の境界線に位置し、太平洋と東シナ海を望む。1945年の沖縄戦では日本軍の最期の防衛ラインとして激戦地となった。1950年代、アメリカとソ連の核開発が激化するなかで、米軍占領下の沖縄の米軍基地への核兵器配備が急速に進められ[1]、アメリカ陸軍はホークミサイルのミサイルサイトとして同地を接収した。

米陸軍第30防空砲兵旅団が与座岳第一陸軍補助施設 (ホークミサイルサイト) として使用。

  • 旧称: 与座岳第1陸軍補助施設 (Yozadake Army Annex No. 1)
  • 改称: 与座岳サイト (Yozadake Site)
  • 施設番号: FAC6273
  • 場所: 糸満市、具志頭村 (八重瀬町)、東風平村 (八重瀬町)
    • 具志頭村: 34,000㎡
    • 糸満市: 88,000㎡
  • 面積: 約121,400㎡
沖縄における米軍ホークミサイルサイト 施政権移行 (1972年) 後
No. 9 ボロー・ポイント射撃場 (読谷陸軍補助施設) 返還
No. 10 知花サイト 陸自 白川分屯地に移管
西原第二陸軍補助施設 (ホワイト・ビーチ地区) 陸自 勝連分屯地に移管
No. 12 多野岳サイト (羽地陸軍補助施設) 返還
No. 13 知念第一サイト 陸自 知念分屯地 に移管
No. 14 与座岳サイト 陸自 南与座分屯地に移管
渡嘉敷陸軍補助施設 に2か所 返還 国立沖縄青少年交流の家
陸上自衛隊南与座分屯地

陸上自衛隊への移管

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与座岳のアメリカ陸軍のホーク・ミサイルサイト「与座岳陸軍補助施設」は、沖縄返還協定了解覚書で2つに分割され、第一は与座岳サイト、第二は与座岳陸軍補助施設として継続使用されるA表にリスト化される。また同時にB表に基づき、返還後に陸上自衛隊のミサイルサイトとして段階的に移管される。

1972年以前の名称 改称 移管先
FAC6273 与座岳第1陸軍補助施設 与座岳サイト B表-8 陸自南与座分屯地
FAC6074 与座岳第2陸軍補助施設 与座岳陸軍補助施設 B表-9 陸自八重瀬分屯

1973年2月15日 - 85千㎡が陸上自衛隊に移管される。4月16日、南与座高射教育訓練場「南与座分屯地」が開設され、アメリカ陸軍からミサイルサイトの引き継ぎが始まる。

1947年9月30日 沖縄返還協定了解覚書B表に基づき132千㎡が全返還され、米陸軍が撤退し、陸上自衛隊の基地となる。

  • 名称: 南与座高射教育訓練場 (南与座分屯地)
  • 面積: 132,000㎡
  • 場所: 沖縄県島尻郡八重瀬町字安里569

関連項目

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脚注

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