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下郡平治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下郡平治
しもごおり へいじ
生年月日 1906年3月31日
出生地 日本の旗 日本 大分県大分郡明治村
(現・大分県大分市
没年月日 1993年
出身校 大分県立実業補習学校教員養成所卒業
(現・大分大学教育学部)
前職 戸次専修女学校長
所属政党 自由民主党

在任期間 1965年 - ?

当選回数 2回
在任期間 1958年 - 1963年3月9日

選挙区 鶴崎市選挙区
当選回数 1回
在任期間 1955年 - 1958年4月17日

在任期間 1947年 - 1953年
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下郡 平治(しもごおり へいじ、1906年明治39年〉3月31日[1][2] - 1993年平成5年〉[3])は、日本政治家。元大分県鶴崎市(現・大分市)長(2期)。

経歴

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大分県大分郡明治村(のち鶴崎市、現・大分市)出身[4]。大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)を経て[4]、大分県立実業補習学校教員養成所(現・大分大学教育学部)卒[4]。卒業後は県内の各青年学校の教員となる[4]1943年昭和18年)10月に大分県視学となった[2]1946年(昭和21年)3月に戸次専修女学校長となった[2]

戦後の1947年(昭和22年)、明治村村長に当選[2][4]1953年(昭和28年)まで務めた[4]。翌1954年(昭和29年)、明治村は鶴崎町などと合併し、鶴崎市が発足した。同年7月に鶴崎市酪農連合会長、11月に昭和井路土地改良区庶務理事にそれぞれ就任した[2]1955年(昭和30年)から大分県議会議員を1期務める[4][注釈 1][注釈 2]1958年(昭和33年)4月17日に県議を辞職した[5]。同年、鶴崎市長に当選[4]。当選後は大分市との合併に取り組み、工場誘致や新産業都市の建設などに力を入れた[4]1963年(昭和38年)鶴崎市は大分市と対等合併し、合併により市長の職から身を引いた[4]1965年(昭和40年)、大分市議会議員に当選[4]。1993年(平成5年)死去。

脚注

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注釈

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  1. ^ 交友倶楽部を経て、1956年(昭和31年)1月10日から自民党所属[2]
  2. ^ 鶴崎市選出[5]

出典

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  1. ^ 全日本紳士録 昭和34年版 335コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ a b c d e f 大分県議会の歩み 第3巻 269コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』423頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『大分県歴史人物事典』269頁。
  5. ^ a b 大分県議会の歩み 第3巻 49コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
  • 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。