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下方弥三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
下方弥三郎
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
氏族 下方氏
父母 父:下方貞清
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下方 弥三郎(しもかた やさぶろう)は、戦国時代武将織田氏家臣

生涯

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織田信長の家臣・下方貞清の子と伝わる。信忠の小姓として仕え、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際も信忠と共に二条新御所にあった。弥三郎は明智光秀軍相手に奮戦して左足を負傷し、脇腹をやられて腸がはみ出していた[1]。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたという(『士林泝洄』3)。

信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死した[1]

脚注

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  1. ^ a b 歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』学習研究社、2007年、170頁。