コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

上田桑鳩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月11日 - 1968年〈昭和43年〉9月4日)は、日本書道家である。

前衛書道の分野でよく知られる。本名は上田順(旧姓:藤田)。

兵庫県三木市(旧美嚢郡吉川町)奥谷出身。二松學舍専門学校卒。

略歴

[編集]

1899年5月11日に兵庫県美嚢郡吉川町(現三木市)に父・藤田石太郎、母・こうの三男として生まれ、吉川高等小学校・私立三田中学校(現三田学園中学校・高等学校)を1917年(大正6年)3月に卒業し、1919年(大正8年)に宝塚市にある上田亀蔵の養女・上田りんと結婚し、上田姓となった[1]

1926年に義父が友人の保証をしていたが、その破産が上田家に影響し、全財産を失い、翌1927年(昭和2年)に決断書専門に生きる志を抱いて、小寺氏に相談したところ、賛成されたので、家事を整理し、同年11月に上京した。1929年(昭和4年)に比田井天来の門に入り、天来の下で多様な古典を学習し、1930年(昭和5年)第1回泰東書道展に出品した「臨黄庭経」で文部大臣賞を受賞した。二松學舍専門学校卒後、1933年(昭和8年)に金子鷗亭桑原翠邦らとともに書道芸術社を設立し、また「書道芸術」を創刊して造形としての書について論を発表。1937年(昭和12年)に大日本書道院を、1940年(昭和15年)には奎星会を結成し、同年に死亡した師天来死後は、「臨書研究」などの古典研究を行い、終戦後に「書の美」を発刊する。

1951年(昭和26年)に日展に出品した「愛」を巡っては論議が起こり、1955年(昭和30年)に同展を脱退する。晩年には、1968年(昭和43年)に発表した「鳳」など顔料を使った書作を試みたほか、海外の芸術展にも参加した。1968年に死去。享年70(満69歳)。従五位に叙せられた。

人物

[編集]
  • 父の藤田石太郎は奥吉川村村長、祖父の藤田重九郎は稲田村外十九か村戸長である[1]
  • 中学校在学中に美術に興味を持ち美術学校を志望したが、父が銀行業務の破綻の責任を持って自殺し家計が貧しくなった。桑鳩は棺に入っている父の顔を見て「必ず私が代わってこの汚名をそそぎます」と発言した[1]
  • 桑鳩の出身地である三木市では、桑鳩に因んだ「墨華香るまちフェスティバル」を開催している。
  • 井上有一が師として選んだ人物である[2]
  • 日本経済新聞の題字を手掛けた[2][3]

主な出展作品

[編集]
  • 寒江(1950年、第6回日本美術展覧会(日展))
  • 愛(1951年、第7回日展)
  • 鳳(1968年、第17回奎星展)

その他作品

[編集]

1960年前後に北海道を巡った桑鳩は、各地に作品を残している。

  • 雨にもまけず(美幌町立美幌小学校)
  • 小鳥のように(美幌町立東陽小学校)作品紛失
  • 子供のよいところをさがそう(津別町立津別小学校)
  • 人のよいところをさがそう(津別町立津別小学校)
  • 日日新(津別町立津別小学校)
  • ゆうき(滝上町立滝上小学校)
  • 日新(滝上町立文化センター)

著書

[編集]
  • 『臨書研究』(上下巻) 興文社、1940-1941年
  • 『蟬の聲』興文社、1943年
  • 『書の話』(全3巻) 研精会、1950年
  • 『書道入門』(基礎篇・臨書篇・創作篇・鑑賞篇) 創元社、1953年
  • 『書の鑑賞と学び方』 教育図書研究会、1955年
  • 『書をはじめる人のために』 池田書房、1964年
  • 『上田桑鳩臨書集』(全3巻) 天来書院、1994年

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 吉川町誌 824ページ
  2. ^ a b 『美の美 デタラメに書け 井上有一』 - 日本経済新聞(2004年8月8日付)
  3. ^ 日本経済新聞の誕生”. 日本経済新聞社. 2019年11月29日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]