長野電鉄デハ350形電車
長野電鉄デハ350形電車 | |
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モハ610形611 (上田交通上田原電車区にて倉庫として利用 1988年) | |
基本情報 | |
製造所 | 川崎造船所 |
主要諸元 | |
軌間 | 1,067(狭軌) mm |
電気方式 | 直流1,500 V(架空電車線方式) |
車両定員 | 100人 |
車両重量 | 31.4 t |
全長 | 17,120 mm |
全幅 | 2,705 mm |
全高 | 4,210 mm |
車体 | 全鋼製 |
台車 | 川崎造船所 BW-A |
主電動機 |
直流直巻電動機 ウェスティングハウス・エレクトリック WH-556-J6 |
主電動機出力 | 75 kW (1時間定格) |
搭載数 | 4基 / 両 |
端子電圧 | 750 V |
駆動方式 | 吊り掛け駆動 |
歯車比 | 4.56 (73:16) |
制御装置 | 電空単位スイッチ式間接非自動制御 |
制動装置 |
SME非常弁付直通ブレーキ 発電ブレーキ・手ブレーキ |
長野電鉄デハ350形電車(ながのでんてつデハ350がたでんしゃ)は、長野電鉄に在籍した電車(制御電動車)である。
大正末期から昭和初期にかけて川崎造船所において新製された鋼製車体の電車、いわゆる「川造形[1]」としての典型的な特徴を備える、長野電鉄初の全鋼製車体を備える電車であり、1927年(昭和2年)に4両が新製された[2]。
製造経緯
[編集]1926年(大正15年)6月から同年12月にかけて新製されたデハ100形・デハニ200形に引き続き、翌1927年(昭和2年)8月と同年10月の二度にわたって2両ずつ、デハ350形351 - 354の計4両が新製された[3][注 1]。先行形式であるデハ100形・デハニ200形は長野電鉄の前身事業者である長野電気鉄道および河東鉄道時代に発注・竣功した車両であったため、両社の合併によって成立した長野電鉄としてはデハ350形(以下「本形式」)が初の新製車両となった[2][6][注 2]。
デハ100形・デハニ200形は汽車製造東京支店へ発注され、同社が設計製造を担当したのに対し、本形式の設計製造はこれらとは異なり、川崎造船所が担当した[3][5]が、これは長野電鉄の幹部が視察のため旧・西武鉄道(後年武蔵野鉄道へ吸収合併され現・西武鉄道となる)を訪れた際、当時の最新型車両であった「川造形」のモハ550形電車を実見し気に入ったことが契機となって発注に至ったものとされる[1][注 3]。
前述の通り、本形式は川崎造船所が大正末期から昭和初期にかけて各地の私鉄へ納入したメーカー独自の規格設計による、いわゆる「川造形」電車の典型例の一つである[1]。
同様の設計・外観を備える車両としては、前述の旧・西武鉄道モハ550形のほか、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が発注した600形・800形(1926年)、目黒蒲田電鉄(後の東京急行電鉄)が発注した200形(1927年)、東京横浜電鉄が発注した300形(1927年)、豊川鉄道および鳳来寺鉄道(いずれも現・JR飯田線の一部)が発注したモハ20形(1926年)[注 4]の各形式が存在する[1]。
これらはいずれも、川崎造船所が1925年(大正14年)に阪神急行電鉄向けに新製した日本の鉄道車両初の全鋼製車体の試作車である510形510の設計製造実績を反映して翌1926年(大正15年)より量産製造された阪神急行電鉄600形・800形[8]を設計の基本とし、各社の要求に応じて細目を修正・変更したものである。
そのため、これら「川造形」電車各形式は、細部には差異を有するものの、構体の主要寸法はほぼ同一であり[1][注 5]、また外観も深い屋根と客用扉の直上に設けられた円弧を描く水切り・腰高な窓位置・リベット組立工法を多用した製造方法など、共通する特徴を数多く備える[1][注 6]。
本形式は複数回に及ぶ改番を経て、最終的にモハ600形・モハ610形の2形式に区分され、1980年(昭和55年)まで在籍した[3]。
車体
[編集]前述の通り、リベット組立工法を多用した全長17,120mmの全鋼製構体を備える[9]。妻面は貫通扉のない非貫通構造折妻3枚窓構成で、車体前後端に運転台を備える両運転台構造を採用するが[9]、初回に落成したデハ351・352が進行方向左隅に運転台を備えるのに対し、次いで落成したデハ353・354は中央に運転台を備える点が異なる[10]。
床下には、台枠補強用のトラスロッドが設置されており、木造車時代の設計を踏襲している[7]。
また、本形式は冬季降雪時における運用を考慮して、前面窓上方に空気配管を設けて運転台に設置したコックの操作によって圧搾空気を窓ガラスへ噴射し、窓ガラスに付着した雪を除去する空気式窓ガラス除雪装置を装備した[2]。
側面には1,003mm幅の片開客用扉を片側3箇所備え、客用扉間には一段落とし窓方式の698.5mm幅の側窓を6枚配した[9]。側面窓配置は1D6D6D1(D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で、乗務員扉の設備はない[9]。
車内はロングシート仕様で[9]、屋根上の通風器はこちらも「川造形」の特徴であるお椀形ベンチレーターを採用、屋根上左右に各4個、1両当たり計8個搭載した[9]。また、屋根上前後両端部にはパンタグラフを設置するためのパンタグラフ台座が各1組ずつ設置された[7]。
主要機器
[編集]制御方式はウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 社が開発した電空単位スイッチ式の間接非自動制御で、制御電源を補助電源装置より低電圧給電にて得るHB (Hand acceleration Battery voltage) [注 7]制御器を搭載する[12]。また、本形式は最急勾配40‰の勾配区間が存在する山ノ内線における運用を考慮し、抑速制動として発電制動機能を備える[9]。
主電動機はウェスティングハウス・エレクトリック製の直流直巻電動機WH-556-J6(端子電圧750V時定格出力75kW)を1両当たり4基搭載する[12]。駆動方式は吊り掛け式、歯車比は4.56 (73:16) である[12]。これにより、全界磁定格速度は34.0km/h、定格引張力は3,224kgfを公称する。
台車は川崎造船所BW-Aを装着する[2]。ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス (BLW) 社開発のボールドウィンA形台車を原設計として製造された形鋼組立形の釣り合い梁式台車で、固定軸間距離は2,134mm、車輪径は864mmである[9]。
制動装置は構造の簡易な直通ブレーキに連結運転時の安全対策として非常弁を付加したSME直通ブレーキを採用した[12]。その他前述の通り抑速発電制動を備え、前後運転台には手ブレーキを備える[9]。
集電装置は三菱電機製の菱形パンタグラフS-514ARを1両当たり1基搭載した[12]。
運用
[編集]1929年(昭和4年)6月に実施された車両記号改訂に伴って、本形式はモハ350形351 - 354と車両番号(以下「車番」)はそのままに記号のみが変更された[3]。
戦後の1950年(昭和25年)に全車とも客用扉に戸閉装置(ドアエンジン)が設置されて自動扉仕様となった[2]。また、1953年(昭和28年)に新たな車番付与基準が制定され、本形式はモハ600形601 - 604と改称・改番された[3]。さらに同時期には山ノ内線内(信州中野 - 湯田中間)に折り返し列車が設定されたことに伴って、モハ603・604が同運用の専用車両となり、踏面ブレーキを多用せざるを得ない勾配線区における車輪の発熱によるタイヤ弛緩対策として、屋根上搭載の冷却用水タンクおよび台車への配管を新設し、水を車輪に噴射する冷却装置を装備したが[2]、こちらは程なく前述した空気式窓ガラス除雪装置とともに撤去された[2]。
1966年(昭和41年)にモハ601・602はパンタグラフ側の運転台を全室式に改造し、前面窓をHゴム固定支持に改め、側面には乗務員扉を新設し、同時に客用扉を窓1つ分後方へ移設した[13]。改造後の同2両はモハ610形611・612と形式区分された[3]。
その他、同年には日本車輌製造において[14]台車が従来のBW-Aからモハ603・611は日本車輌製造D-16Bへ、モハ604・612は帝國車輛工業UD-26へ、それぞれ換装された[12][注 8]。両台車ともBW-Aと同様にボールドウィンA形台車を原設計として製造された形鋼組立形の釣り合い梁式台車であり、固定軸間距離は2,250mm、車輪径は860mmである[9][注 9]。
1970年代より開始された長野線の長野市内区間地下化工事の進捗に従って、不燃化基準を満たさない旧型車各形式については1977年(昭和52年)以降、順次淘汰が実施された[3]。
モハ600形・モハ610形の両形式については比較的後年まで残存したが、旧型車の代替を目的として導入された2500系(元東急5000系(初代))の増備進捗に伴って1980年(昭和55年)4月21日付[3]でモハ603・モハ612が、同年10月31日付[3]でモハ604・モハ611がそれぞれ廃車となり、モハ600形・モハ610形は形式消滅した[3]。
長野電鉄における除籍後は、解体処分されたモハ603を除く3両が上田交通へ譲渡された[10]。
上田交通譲渡後
[編集]上田交通へ譲渡された3両のうち、モハ612はモハ5270形モハ5271(2代)として1981年(昭和56年)6月24日付認可[18]で導入されたが、他の2両については当初部品取りおよび倉庫代用として使用する目的で譲り受けたことから、整備を受けることなく上田原車庫構内において留置された[13]。その後譲渡より2年余りが経過した1983年(昭和58年)にモハ604については整備が実施され、電装解除の上で制御車化され、同年6月13日付認可[18]でクハ270形クハ271(2代)として導入された。なお、モハ611については上田原駅構内に存在した上田原電車区において倉庫代用として用いられ、鉄道車両として導入されることはなかった[13]。尚、上田交通のモハ5270形、クハ270形は上田丸子電鉄時代の丸子線で使用されていた形式と同一であるが、どちらも「川造形」車体の同系車であったことは興味深い。
本形式に先行して譲渡・導入された長野電鉄モハ100形・モハ200形(上田交通モハ5260形・クハ260形)と同様、導入に際しては車体塗装の上田交通標準塗装への塗り替えのほか、導入線区である同社別所線の架線電圧が長野電鉄各路線の直流1,500Vに対して直流750Vと異なることから降圧改造が施工された[13]。
1986年(昭和61年)10月1日付で実施された別所線の架線電圧の直流1,500Vへの昇圧に際して、モハ5271・クハ271(ともに2代)は前日の9月30日をもって運用を離脱、昇圧当日の10月1日付で廃車となった[18]。
廃車後、クハ271は長野電鉄へ返還され[19][注 10]、車体表記をモハ604に復元した上で保管されたのち、1990年(平成2年)より小布施駅構内に新設された「ながでん電車の広場」にて静態保存された[19]。
その後、2012年(平成24年)に2000系D編成保存のため信濃川田駅跡に移動、2014年(平成26年)10月に安曇野ちひろ公園に開設される「トットちゃん広場」で「電車の教室」として利用するため北安曇郡松川村に再移動し、2016年(平成28年)7月から公開されている[20][21]。
なお、別所線の沿線自治体である上田市の別所線存続運動プロジェクトチーム「アイプロジェクト」において用いられるキャラクターのうち、「あかぼうしくん」は上田交通モハ5271(2代)を、「あかねちゃん」は終始倉庫として用いられたモハ611をそれぞれモデルとして考案されたものである[22]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ メーカー側での製造実績両数表では製修2513として5両が生産されたことになっており、売り上げ月は1927年(昭和2年)10月で一括の扱いとなっている[4]。このため、2両ずつの新製はメーカー側キャパシティの都合による分割納品の結果であった可能性があり、また少なくともデハ353・デハ354は納入後最短でも2ヶ月間に渡って監督官庁である鉄道省へ竣工届が出されなかったことになる。なお、この製造実績両数表と実際の製作数の間には1両分の両数差が存在するが、この相違の原因は明らかとなっていない。ただし、後年になって川崎造船所兵庫工場の後身である川崎重工業車両事業本部が刊行した書籍では、長野電鉄向け製造実績は4両とされており[5]、単なる誤記あるいは転記ミスであった可能性がある[要出典]。
- ^ メーカー側記録では発注者は河東鉄道と明記されており[4]、実際にも発注は前身の河東鉄道時代に実施されている[7]。
- ^ 西武鉄道モハ550形の初回落成分の竣功は西武鉄道側資料において1927年(昭和2年)1月とされており、これが正しいと仮定すると鉄道車両の製造に要する期間を考慮した場合信憑性に疑問が残る。ただし、メーカー側製造実績両数表では西武鉄道モハ550形は製修2384として1926年(大正15年)11月に10両が売り上げられたと記録されており、実際の納品はこれ以前に実施されたことになる[4]。
- ^ これらはメーカー側製造実績両数表では製修2448として豊川鉄道から一括受注した形を採っている[4]。
- ^ 車体長は16,304mm(阪神急行600)・16,307mm(長電デハ350、豊川・鳳来寺モハ20)・16,310mm(目蒲デハ200・デハ300、西武550)、台車中心間距離は10,970mm(阪神急行、目蒲、西武)・10,973mm(長電、豊川・鳳来寺)と、同一値あるいは近似値であることが判る[1]。
- ^ ただし、全形式が全鋼製車体であったわけではなく、目黒蒲田電鉄200形と東京横浜電鉄300形は内装を木造とした半鋼製車体であった[4]。
- ^ 元々アメリカ本国では蓄電池を電源としたモデルにこの型番が与えられていたため、Battery voltage、つまり「バッテリー電圧」という名称が与えられている。もっとも、日本向けでは最初期に輸入された南海鉄道電2形でバッテリー動作のモデルが採用されたがバッテリーの不具合に起因するトラブルが続出、それ以降に輸入されたHB制御器はことごとく電動発電機からの給電で動作する設計となっている。南海鉄道電2形も結局はバッテリーの保守に手を焼いた末に短期間で制御器を放棄し、制御車の電附8形に改造されている[11]。
- ^ 帝國車輛工業製の台車についてはUD-16と記載する文献も存在する[15]。
- ^ 帝國車輛工業UD-26は関西急行鉄道が1942年(昭和17年)と1944年(昭和19年)に合計10両を製造したモ6311形に同じ形式の台車が装着されたことが知られており[16]、これら10両分のUD-26は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風とそれに伴う近鉄名古屋線の改軌工事スケジュールの前倒しで全数が改軌改造工事を施工されることなく新製の近畿車輛KD-32Bに交換され、同様に台車交換で余剰となった日本車輌製造D16・D16B・D18といった狭軌用釣り合い梁式台車各種とともに、幾つかの私鉄へ売却されたとされる[17]。このため、台車交換時期や同時期の他社での同系台車の保有状況を考慮すると、これらは近鉄名古屋線改軌で不要となり、放出された台車である可能性が高い。[要出典]
- ^ クハ271が長野電鉄に返却された1988年(昭和63年)当時、上田交通塗装のクハ271が長野電鉄屋代駅に留置され、長野電鉄塗装のモハ611が上田交通上田原電車区跡に留置される「ねじれ現象」が発生していた[要出典]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 「いとこ同士 - 同形車を訪ねて - (上)」 pp.22 - 23
- ^ a b c d e f g 「私鉄車両めぐり(49) 長野電鉄」 p.167
- ^ a b c d e f g h i j 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 p.32
- ^ a b c d e 『鉄道史料』第62号 p.59
- ^ a b 『蒸気機関車から超高速車両まで』 p.152
- ^ 「私鉄車両めぐり(49) 長野電鉄」 p.166
- ^ a b c 『蒸気機関車から超高速車両まで』 p.181
- ^ 『蒸気機関車から超高速車両まで』 p.205
- ^ a b c d e f g h i j 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 p.39
- ^ a b 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 p.36
- ^ 『車両発達史シリーズ5』 p.87
- ^ a b c d e f 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 pp.46 - 47
- ^ a b c d 『上田交通別所線 さようなら丸窓電車』 pp.64 - 69
- ^ 『世界の鉄道'76』 p.159
- ^ 『世界の鉄道'76』 pp.158 - 159
- ^ 『近鉄旧型電車形式図集』 p.177
- ^ 『車両発達史シリーズ2』 p.97
- ^ a b c 『RM LIBRARY74 上田丸子電鉄(下)』 pp.54 - 55
- ^ a b 「現有私鉄概説 長野電鉄」(1998) p.173
- ^ “ながでん電車の広場”. 長野電鉄. 2016年6月18日閲覧。
- ^ “モハとデハニ”. いわさきちひろ記念事業団. 2016年6月18日閲覧。
- ^ “まるまどくんが行く!まるまどくんについて - モハ5250 丸窓電車 - 上田丸子電鉄の軌跡 -”. 上田市マルチメディア情報センター. 2013年1月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 書籍
- 鉄道史資料保存会『近鉄旧型電車形式図集』鉄道史資料保存会、1979年。
- 唐沢昌弘 『上田交通別所線 さようなら丸窓電車』 銀河書房 1986年9月
- 藤井信夫 編『車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道 特急車』関西鉄道研究会、1992年。
- 川崎重工業株式会社 車両事業本部 編『蒸気機関車から超高速車両まで 写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史』交友社(翻刻)、1996年。
- 藤井信夫『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』関西鉄道研究会、1996年。
- 宮田道一・諸河久 『RM LIBRARY74 上田丸子電鉄(下)』 ネコ・パブリッシング 2005年10月 ISBN 4-7770-5120-X
- 宮田道一・村本哲夫 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 ネコ・パブリッシング 2006年10月 ISBN 4-7770-5183-8
- 雑誌
- 鉄道ピクトリアル編集部 編 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 鉄道図書刊行会 1982年4月
- 村本哲夫 「私鉄車両めぐり(49) 長野電鉄」 pp.164 - 171
- 『鉄道ピクトリアル』 鉄道図書刊行会
- 吉川文夫 「いとこ同士 - 同形車を訪ねて - (上)」 1966年9月号(通巻183号) pp.22 - 24
- 佐藤清 「現有私鉄概説 長野電鉄」 1998年4月臨時増刊号(通巻652号) pp.168 - 173
- 「日本の私鉄車両諸元表」『世界の鉄道'76』、朝日新聞社、1975年10月、156 - 167頁。
- 資料提供 金田茂裕「川崎車輛製造実績両数表」『鉄道史料』第62巻、鉄道史資料保存会、1991年7月、55 - 77頁。