上林久茂
表示
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天文元年(1532年) |
死没 | 慶長11年6月7日(1606年7月11日) |
別名 | 掃部丞、久徳、休徳 |
墓所 | 平等院[1] |
主君 | 浅井長政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康 |
氏族 | 清和源氏赤井氏族上林氏[1] |
父母 | 上林久重、六角義賢の娘[1] |
兄弟 | 久茂、紹喜、秀慶、政重[1] |
妻 | 多羅川佐渡の娘 |
子 | 勝永 |
上林 久茂(かんばやし ひさもち)は、安土桃山時代の武将、宇治茶師[2]。
略歴
[編集]父とともに故地の丹波何鹿郡上林庄を出て浅井長政に仕える。天正元年(1573年)浅井氏滅亡後はかねてより縁のあった宇治に移って茶師となり織田信長、豊臣秀吉に仕えた。天正17年(1590年)宇治に茶園と390石を与えられて、長年宇治茶師を任じてきた森彦右衛門とともに御茶頭取に取り立てられた[3]。茶道は千利休に学んだといい、利休と共に徳川家康の在京屋敷経営に尽力して100石を加増された[2][1]。また利休の後援によって茶師としての優勢地位を確立し、古田重然・小堀政一・細川忠興らとも交流があった[4]。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属して石田三成の部将・田辺惣兵衛を討ち、また弟の政重が伏見城の戦いで討死したこともあって厚遇され、宇治領有を認められ、以後上林家は政重流とともに宇治代官・宇治茶師を世襲する家柄となった[3][5][1]。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 葉山禎作 著「上林久茂」、朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、2001年。ISBN 9784023400528。
- 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「上林久茂」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003。
- 林屋辰三郎 著「宇治茶師」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』吉川弘文館、1980年。ISBN 9784642005029。
- 島田勇雄 編『本朝食鑑』 2巻、平凡社〈東洋文庫〉、1977年。ISBN 4582803121。
- 『寛政重修諸家譜』 19巻、続群書類従完成会、1966年。ISBN 4797102233。