上井里兼
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄9年(1566年) |
死没 | 寛永8年6月4日(1631年7月3日) |
別名 | 神五郎→次郎左衛門 |
戒名 | 梅北了香居士 |
主君 | 島津義弘 |
藩 | 薩摩藩士 |
氏族 | 上井氏(諏訪氏) |
父母 | 父:上井秀秋 |
兄弟 | 里兼、兼政 |
子 | 兼道、兼吉 |
上井 里兼(うわい さとかね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。
永禄9年(1566年)、上井秀秋の嫡子として生まれた。
天正18年(1590年)2月に、25歳にして島津義弘の家老に就任する。その後、日向国小林地頭となり、朝鮮の役にも義弘の供をして渡海、慶長3年(1598年)に泗川の戦いでの勝利を報告する為に帰国し、そのまま伏見に在住した。
慶長15年(1610年)、琉球の検地で功を為し[1]、慶長18年(1613年)には義弘の人質が出府する供をして江戸に8年間在住、その功として200石を賜る。
寛永8年(1631年)、帖佐(現・鹿児島県姶良市)の中津野村にて病没。子孫は、諏訪因幡守頼満(諏訪因幡守頼水か?)の免許を得て、曾祖父以前の姓である「諏訪氏」に帰した。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
- 『南聘紀考』
- 『沖縄志』