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三隅兼知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三隅 兼知
生誕 不詳
死没 正平7年/文和元年(1352年)5月11日
墓所 島根県浜田市三隅町黒沢651笠取りの墓
主君 後醍醐天皇後村上天皇
氏族 三隅氏(三角氏)
父母 兼連
兄弟 兼春 兼雄
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三隅 兼知(みすみ かねとも)は、日本南北朝時代武将石見国の宮方(南朝方)代表的人物三隅兼連の長子、石見宮を奉じるも正平7年/文和元年(1352年)5月11日男山八幡の夜戦にて戦死。

生涯

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資料に登場するのは延元元年(1336年)河内城にて三隅兼連は戦備を整え7月21日長男兼知を将として益田城攻めに打って出て[1]同2年長門に出陣[2]。 その後ほぼ父兼連と行動を共にしたと思われるが 正平7年(1352年)2月三隅兼知を将として派遣した石見南朝軍は花園宮満良親王皇子石見宮を奉じ賀名生に馳せ参ずるも後村上天皇は既に山城の男山八幡に陣していたのでそこに移動し3月対面なるも[3] 5月11日八幡の戦いで追撃を受け石見宮・三隅兼知・胡簶局は討死、太平記には討死する者三百人其の中に宮一人とまた四条隆資の名前が河村文書にも確認できる。この時三隅兼連は地元三隅城にいた説[4]と八幡の戦いを長子兼知と共に戦って生き残った説[5]と書籍に拠り分かれる。

笠取りの墓

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現在三隅兼知に関する史跡が三隅町黒沢地区に残っている、そこの説明板を要約すると 正平7年(1352年)5月11日男山八幡の夜戦で戦死した石見宮・三隅城主5代兼知・乳母胡簶局の遺髪・遺品を三浦兼顕が持ち帰って埋葬した墓で前を通る時どんな高位高官の人も笠を取り一礼したので笠取りの墓と呼ばれた[6]

其の後父第4代三隅兼連も正平10年(1355年)3月12日に京都で戦死したので次子三隅兼春が跡を継ぎ石見南朝軍の中心として抵抗を続けた。[7]

画像集

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出典

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  1. ^ 三隅町誌P224
  2. ^ 姓氏家系大辞典P5782
  3. ^ 三隅町の人物史P30~31
  4. ^ 山陰の武将P100
  5. ^ 三隅町誌P209
  6. ^ 笠取りの墓説明板
  7. ^ 姓氏家系大辞典P5782

参考文献

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  • 史跡 笠取りの墓説明板 三隅町教育委員会 昭和56年(1981年)3月26日
  • 三隅町誌編纂委員会『三隅町誌』昭和46年(1971年)2月20日
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』(三)ナ‐ワ角川書店昭和38年(1963年)11月20日
  • 藤岡大拙・藤澤秀晴『山陰の武将』山陰中央新報社昭和49年(1974年)4月30日平成8年(1996年)10月15日復刻初版
  • 寺戸常雄『三隅町の人物史』三隅町文化財愛護会 昭和59年(1984年)8月25日

関連項目

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