三輪秀一
表示
三輪 秀一(みわ ひでいち[1]、1873年(明治6年)10月10日[2] - 1921年(大正10年)7月26日[2])は、日本の陸軍軍人。第11師団参謀長を務め、シベリア出兵の際戦死を遂げる。階級は陸軍少将功四級に至る[1]。妻は仁田原重行陸軍大将の娘[3]。
経歴
[編集]山口県出身[1][2]の三輪は陸軍士官学校に入り、1896年(明治29年)11月26日士官候補生第8期として卒業[2][4]、1897年(明治30年)6月28日陸軍歩兵少尉に任官される[4]。同期には軍事参議官兼教育総監渡辺錠太郎大将・内閣総理大臣林銑十郎大将らがいる。
中尉進級後の1903年(明治36年)8月3日陸軍大学校に入学するが、三輪の属する第20期生は日露戦争期であったため1904年(明治37年)2月9日一時中退し1906年(明治39年)3月20日復校、三輪は歩兵大尉任官を経て1908年(明治41年)11月30日卒業する[1][2][5]。その後歩兵将校として累進し、1918年(大正7年)7月24日歩兵大佐進級と共に歩兵第4連隊長を命ぜられる[1][2]。
1920年(大正9年)2月21日、第11師団参謀長を拝命し師団はシベリア出兵に参加するが、1921年(大正10年)7月、ザバイカル方面で作戦従事中に戦死を遂げ、同日付けで陸軍少将に進級した[1][2]。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。