コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

三田義正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三田 義正(みた よしまさ、1861年5月30日文久元年4月21日 [1][2])- 1935年昭和10年)12月31日[1])は、日本の実業家政治家三田商店の創業者[3]貴族院多額納税者議員。旧制岩手中学校(現岩手中学校・高等学校)創設者[1]。現在の盛岡市菜園・大通り商店街の礎を築いたことで知られる[1]。幼名・寅太郎[3]

人物

[編集]

陸奥国岩手郡仁王村赤川[2]岩手県南岩手郡仁王村を経て現盛岡市本町通三丁目[2])で、盛岡藩士三田義魏(よしたか)、キヨの長男として生まれた[2][4]。鍛冶町学校[3]藩校作人館を経て[3]、仙台の宮城英語学校を卒業し[1][2]、東京の学農社で西洋の農学を学んだ[2][3]1881年(明治14年[注釈 1])、岩手県庁に勤めるも2年で退職[2]1886年(明治19年)に加賀野村[注釈 2]会議員に当選[2]。岩手県会議員、盛岡市会議員を歴任するも、友人の選挙支援に失敗し、家産の大部分を失う[2]。しかし、母キヨの支援により火薬販売等の権利を獲得し、明治27年(1894年)に三田火薬販売所[注釈 3](現・株式会社三田商店)を設立し、次第に業務を拡大していく[2]。1913年(大正2年)馬淵電気会社を設立し[3]、1925年(大正14年)盛岡商業会議所議員となった[3]

1898年(明治31年)10月、弟・俊次郎、冨田小一郎らと岩手育英会を設立[1]1926年(大正15年)には旧制岩手中学校(現・岩手中学校・高等学校)を創設[1][2]1927年昭和2年)には南部土地株式会社を設立し[2][3]、それまで南部氏が所有していた菜園地区を埋め立て現在の盛岡市菜園、大通り商店街の基礎を築いた[1][2][3]。現在「映画館通り」と呼ばれるものは、1935年(昭和10年)に義正の設立した株式会社中央映画劇場がはじまりである。

1922年(大正11年)1月、岩手県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同月25日に就任し[5][6]1925年(大正14年)9月28日まで在任[7]政友会、のち政友本党系の院内会派である交友倶楽部に所属した[7]

親族

[編集]

伝記

[編集]
  • 藤井茂『三田義正 : 人材育成と果断の事業家』石桜振興会、1992年。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『岩手人名辞典』225頁では明治15年。
  2. ^ 現在の盛岡市加賀野。
  3. ^ 『岩手人名辞典』226頁では三田火薬銃砲店。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『岩手人名辞典』225-226頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 盛岡市役所ホームページ「盛岡の先人たち 第62回:三田義正」
  3. ^ a b c d e f g h i 『岩手県姓氏歴史人物大辞典』329-330頁。
  4. ^ 『人事興信録 第8版』ミ22頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、30頁。
  6. ^ 『官報』第2843号、大正11年1月26日。
  7. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』222頁。
  8. ^ 『岩手人名辞典』224頁。
  9. ^ a b 『人事興信録』38版下、1995、三田正樹の項
  10. ^ 人事興信録 第4版 を15

参考文献

[編集]
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 盛岡市『盛岡市史』1978-1982。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岩手県姓氏歴史人物大辞典』〈角川日本姓氏歴史人物大辞典3〉角川書店、1998年。
  • 『岩手人名辞典』(財)新渡戸基金、2009年。

外部リンク

[編集]