三毛一夫
三毛 一夫(みけ かずお、1883年(明治16年)5月20日[1][2] - 1973年(昭和48年)9月1日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]和歌山県出身[1][2][3]。旧紀州藩士・陸軍大尉、三毛敏徳の長男として函館で生まれる[1]。成城学校(現成城中学校・高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1][2][3]。翌年3月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる[1][3]。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業した[1][2][3]。
1911年(明治44年)12月、歩兵大尉に昇進し参謀本部員となる[1]。1914年(大正3年)2月、ロシアに留学し、同年9月、ロシア軍に従軍[1]。1916年(大正5年)6月に帰国して参謀本部員に就任[1]。1917年(大正6年)12月、シベリアに派遣され諜報活動に従事[1]。1918年(大正7年)6月、歩兵少佐に進み歩兵第18連隊大隊長に就任、近衛歩兵第4連隊付を経て、同年11月、オムスク駐在となる[1]。1919年(大正8年)2月から12月まで浦塩派遣軍司令部付(オムスク特務機関)としてシベリア出兵に出動[1]。参謀本部員(ロシア班)を経て、1921年(大正10年)1月、再び浦塩派遣軍司令部付となる[1]。参謀本部員を務め、1922年(大正11年)4月、歩兵中佐に昇進[1]。近衛歩兵第4連隊付、参謀本部員(ロシア班長)を経て、1924年(大正13年)12月、歩兵大佐に進みスウェーデン公使館付武官に発令[1][3]。ソ連大使館付兼スウェーデン公使館付武官、参謀本部付を経て、1927年(昭和2年)7月、歩兵第43連隊長に就任[1][3]。1930年(昭和5年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第9旅団長となる[1][2][3]。
1932年(昭和7年)4月、第11師団司令部付に転じ、近衛師団司令部付を経て、1934年(昭和9年)3月、第1独立守備隊司令官に就任[1][2][3]。同年8月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。1936年(昭和11年)3月、第7師団長に親補され、1937年(昭和12年)8月、予備役に編入された[1][2][3]。
1938年(昭和13年)3月からハルピン学院院長を務めた[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 1904年(明治37年)4月7日 - 正八位[5]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[6]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[7]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[8]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[9]
- 1934年(昭和9年)9月1日 - 従四位[10]
- 1936年(昭和11年)10月1日 - 正四位[11]
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『日本陸海軍総合事典』第2版、152頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』700-701頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194-195頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
- ^ 『官報』第6228号「叙任及辞令」1904年4月8日。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
- ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
- ^ 『官報』第2307号「叙任及辞令」1934年9月7日。
- ^ 『官報』第2928号「叙任及辞令」1936年10月3日。
- ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
- ^ 『官報』第3037号・付録「辞令二」1937年2月19日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。