三木恢
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三木 恢(みき ひろむ、昭和13年〈1938年〉 - 昭和36年〈1961年〉10月31日)は、日本に展開していた不良集団の首領。三声会会長。三声会は東声会の系列だった。
来歴
[編集]昭和13年(1938年)、朝鮮の公州で生まれた日系人。三木恢は、5人兄弟の末っ子だった。親は朝鮮で鉱山主だった。終戦後、親は日本に引き揚げ、東京・中野区で税務法律相談所を営んだ。昭和27年(1952年)、三木恢の父親が病死した。以降から、三木恢は喧嘩に明け暮れるようになった。昭和30年(1955年)ごろには、新宿で一派らしきものを形成していた。一派は、新宿付近の高校生が中心だった。ほぼそのころ「三声会」を結成したと云われる。ただし、盃のやりとりはなかったという。最盛期でも、組員の6割は高校生だったと云われる。三木の方針で、組員は中流以上の家庭の子弟だったと云われる。会にはジェリー藤尾も加入していた。 昭和36年(1961年)10月31日深夜、新宿区・歌舞伎町の深夜喫茶で、敵対する港会会員に、東声会大幹部・陳 八芳とともに撃たれて死亡した。享年23。
人物・プロフィール
[編集]『サンデー毎日』昭和34年7月26日号で「極東のナワ張り?そんなもの法律にあるわけでもなし」「オレには仁義もいらない。ナワ張りもない。ケンカだけだ。あの場所が金になると思えば、そこに行くだけだ」と語っている。
参考文献
[編集]- 『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<アウトロー文庫>、2006年、ISBN 4-344-40894-2