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三島宗麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三島 宗麻呂(みしま の むねまろ、生没年不詳)は、奈良時代の人物。名は崇麻呂とも記される[1]県主のち宿禰。官位は淡路守従五位下

出自

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三島県主(宿禰)氏は安閑元年閏12月条に登場する三島県主飯粒の末裔で、『新撰姓氏録』「右京神別」に、「神魂命十六世孫建日穂命之後也」」とある。神護景雲3年(769年)2月には三島県主広調(ひろつき)らが宿禰を賜与されている[2]

経歴

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聖武朝天平7年(735年)9月、経師として布施の、布を充てられているのが史料における初出[3]。同10年(738年)2月、写経に従い[4]、写経司より布を充てられている[5]。3月にも写経に従い[6]、11月に写経司の経師と記されている[7]

同11年(739年)正月、写経司の上日(出仕日)があり、得考、舎人と見え[8]、4月、写経司の経師として布施銭を充てられ[9]、5月、上日があり、得考と見え[10]、6月、手実(個人が実情を申告した文書)があり[11]、7月、写経に従い[12]、8月、その上日が見え[12]、8月、その上日が見え[13]、その手実があり[14]、9月、布施銭を充てられ[15]、その上日が見え[15]、10月、その上日が2回見え[16]、11月、写経に従い[17]、12月、上日が見え[18]、この年の上日が見え、得考とあり[19]、写経に従っている[20]

同13年(741年)5月、手実があり[21]、写経生歴名に見える[22]、同15年(743年)9月、題師と見える[23]

同18年(746年)4月、写経司の経師として布施銭を充てられ[24]、紙を充てられ[25]、6月、手実があり[26]、7月、筆を充てられ[27]、9月、写経に従い[28]、10月、写金字経所で国分最勝王経の題師として布施銭を与えられ[29]、11月筆を充てられ[27]、12月、その手実がある[30]

同19年(747年)正月、市原官経を写し、布施銭を充てられ[31]、7月[32]、8月[33]、千手経紙を充てられ、9月、紙を受け[34]、12月、手実があり[35]東大寺写経所の経師として布施布を充てられている[36]

同20年(748年)2月[37]、3月[38]、いずれも写経に従い、4月、写経後所で写経に従い[39]、同所で布施布を充てられ[40]、6月にも同上所より題師として布施布を充てられている[41]犬甘命婦宣の陀羅尼経を写し[42]、7月、千部法花経紙墨充帳に名前が見え[43]、経師校生注文に堂番と見える[44]。この月より翌年6月までの上日が見える。そのうち、8、9月は不仕、散位従八位上、写紙350張、題経3,759巻、伴奉礼仏2度と見える[45]。10月、写経所の題師として布施布を充てられ[46]、12月、題師と見える[47]

同21年(749年)3月、東大寺写一切経所[48]、写書所[49]の題師として布施布を充てられ、また題師と見え[47]、改元した天平感宝4月写疏所の題師として布施銭を与えられ[50]、写経に従っている[51]

孝謙朝となり、改元した天平勝宝元年7月、紙を充てられ、これを請け[52]、8月、写書所の題師として布施布を充てられ、この月より翌年7月までの上日が見え、散位・正八位上と見える[53]。9月、一切経の検納にあたり[54]、この月、東大寺写一切経所の題師と見え[55]、12月、写書所の題師として布施布を充てられている[56]

同2年(750年)正月、造東寺司返送文に「知」と見え[57]、3月、題師として布施布を充てられ[58]、御願八十花厳経を写し、散位・従七位上とある[59]。4月、経紙の検定にあたり[60]、打界帳に「知」と見え写書所の題師として布施布を充てられている[61]、5月、写書所食口帳に署し[62]、6月「知」と見え[63]、写書所の題師として布施布を充てられ[64]、7月、筆墨を請い[65]、経の出納にあたり[66]、写書所に署し、題師として布施布を充てられ[67]、筆墨を請い[68]、経の出納にあたり[69]、この月より翌年7月のまでの上日が見え、正月より竪子所へ出仕し、散位・従七位上と見える[70]。9月、経紙の検定にあたり[71]、10月、紙の出納にあたり[72]。写書所解に署し、題師として布施布を充てられ[73]造東大寺司の題師として布施布を充てられ[74]、題師と見えるが、抹消されている[75]。この年、考紙幷銭を進上し[76]、校生の下にその名が現れている[77]

同3年(751年)2月、造東寺司解に署し、また題師として布施布を充てられ、散位と見える[78]。6月、写書所告朔解に署し、散位を見える[79]、8月、写書所解に署し、また題師と見え[80]、10月、写書所解に署し[81]、12月も同様に記されている[82]。このほか、経紙の出納にあたったものとして、

があげられる。

同4年(752年)閏3月、東大寺写経所返疏文に署し、散位・従七位上と見える[95]。5月、六十花厳経を写し、大倭国大目と見え[96]、8月、上日帳に6月の上日が抹消してある[97]。このほか、経紙の出納にあたったものとして、

があげられる。

同5年(753年)6月、巻鈔紙を充てられ[103]、12月写書所の経師として布施布を充てられている[104]

同6年(754年)5月、楞伽経(りょうがきょう)を写し[105]、7月、六十花厳経を写し[106]、8月、写経所の経師として布施布を充てられている[107]

その後、しばらく記録が途絶えるが、淳仁朝天平宝字2年(758年)9月、造東大寺司の題師として布施布を充てられ[108]、東寺写経所の題師として布施布を充てられ、内記正六位下と見える[109]。11月、越中掾・正六位下と見える[110][111][112]。同3年(759年)11月、越中国砺波郡伊加流伎野、石粟村、同射水郡須加野、鳴戸野など、同新川郡大藪野、丈部野の各東大寺田図の奥書に、「正六位下行掾」として越中国掾として国判を加えているのも同じ人物であるとされている[113]

称徳朝天平神護3年(767年)3月、奉写御執経所別当・図書大亮・六位上とあり[114]、4月には同上所に署し、図書大亮・正六位上とある[115]。5月[116]、7月[117]も同じように記されている。神護景雲2年(768年)2月[118]、同3年(769年)3月、奉写一切経所の別当、図書大亮、正六位上と見える。12月に正六位上から従五位下に昇叙する[119]。同4年(770年)7月に宿禰を賜姓される[120]

光仁朝宝亀5年(774年)外従五位下・図書大亮と見え[121]、7年(776年)3月には淡路守になっている[122]。以後の記録は存在していない。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による

  • 天平7年(735年)9月:見経師。11月:見写経司経師(『大日本古文書』による)
  • 天平11年(739年)正月:見写経司舎人。4月:見写経司の経師(『大日本古文書』による)
  • 天平13年(741年)9月:見題師(『大日本古文書』による)
  • 天平19年(747年)12月:見東大寺写経所経師(『大日本古文書』による)
  • 天平20年(748年)7月:見散位従八位上・8月:不仕。9月:不仕。12月:見題師(『大日本古文書』による)
  • 天平21年(749年)3月:見東大寺写一切経所・写書所題師(『大日本古文書』による)
  • 天平感宝元年(749年)4月:見写疏所題師(『大日本古文書』による)
  • 天平勝宝元年(749年)8月:見写書所題師・散位・正八位上。9月:東大寺写一切経所題師。12月:見写書所題師(『大日本古文書』による)
  • 天平勝宝2年(750年)3月:見散位・従七位上。4月:見写書所題師。6月:見写書所題師。7月:見写書所題師。10月:見写書所題師・造東大寺司題師(『大日本古文書』による)
  • 天平勝宝3年(751年)正月:見竪子所出仕・散位・従七位上。2月:見造東寺司題師・散位。6月:見散位。8月:見写書所題師(『大日本古文書』による)
  • 天平勝宝4年(752年)閏3月、見散位・従七位上。5月:見大倭国大目(『大日本古文書』による)
  • 天平勝宝5年(753年)12月:見写書所経師(『大日本古文書』による)
  • 天平勝宝6年(754年)8月:見写経所経師(『大日本古文書』による)
  • 天平宝字2年(758年)9月:見造東大寺司題師・東寺写経所題師・内記正六位下。11月:見越中掾・正六位下(『大日本古文書』による)
  • 天平神護3年(767年)3月、見奉写御執経所別当・図書大亮・六位上。4月:見図書大亮・正六位上(『大日本古文書』による)
  • 神護景雲2年(768年)2月:見奉写一切経所別当、図書大亮、正六位上(『大日本古文書』による)
  • 神護景雲3年(769年)3月:同上(『大日本古文書』による)。12月11日:従五位下
  • 神護景雲4年(770年)7月25日:宿禰賜姓
  • 宝亀5年(774年)見外従五位下・図書大亮(『大日本古文書』による)
  • 宝亀7年(776年)3月3日:淡路守

脚注

[編集]
  1. ^ 『大日本古文書』巻五 - 659頁・667頁・668頁、巻十七 - 103頁
  2. ^ 『続日本紀』称徳天皇、神護景雲3年2月22日条
  3. ^ 『大日本古文書』巻七 - 39頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻七 - 127頁
  5. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 66頁
  6. ^ 『大日本古文書』巻七 - 150頁
  7. ^ 『大日本古文書』巻七 - 195頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻二 - 156頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻二 - 164頁
  10. ^ 『大日本古文書』巻七 - 411頁
  11. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 90頁
  12. ^ a b 『大日本古文書』巻七 - 132頁
  13. ^ 『大日本古文書』巻七 - 414頁
  14. ^ 『大日本古文書』巻七 - 311頁
  15. ^ a b 『大日本古文書』巻七 - 415頁
  16. ^ 『大日本古文書』巻七 - 415頁・416頁
  17. ^ 『大日本古文書』巻七 - 368頁
  18. ^ 『大日本古文書』巻七 - 417頁
  19. ^ 『大日本古文書』巻七 - 411頁・413頁
  20. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 70頁
  21. ^ 『大日本古文書』巻七 - 525頁
  22. ^ 『大日本古文書』巻二 - 297頁
  23. ^ 『大日本古文書』巻八 - 370頁
  24. ^ 『大日本古文書』巻九 - 177頁
  25. ^ 『大日本古文書』巻九 - 176頁
  26. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 365頁
  27. ^ a b 『大日本古文書』巻九 - 61頁
  28. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 351頁
  29. ^ 『大日本古文書』巻二 - 551頁、巻九 - 299頁
  30. ^ 『大日本古文書』巻九 - 301頁
  31. ^ 『大日本古文書』巻二 - 575頁、巻九 - 196頁
  32. ^ 『大日本古文書』巻九 - 424頁
  33. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 419頁
  34. ^ 『大日本古文書』巻九 - 429頁
  35. ^ 『大日本古文書』巻九 - 538頁
  36. ^ 『大日本古文書』巻九 - 635頁
  37. ^ 『大日本古文書』巻三 - 143頁、巻九 -264頁、巻十 - 119頁、巻廿四 - 475頁
  38. ^ 『大日本古文書』巻十 - 201頁
  39. ^ 『大日本古文書』巻三 - 73頁、巻十 - 214頁
  40. ^ 『大日本古文書』巻三 - 96頁
  41. ^ 『大日本古文書』巻三 - 101頁
  42. ^ 『大日本古文書』巻三 - 192頁
  43. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 488頁
  44. ^ 『大日本古文書』巻十 - 292頁
  45. ^ 『大日本古文書』巻十 - 341頁
  46. ^ 『大日本古文書』巻三 - 124頁
  47. ^ a b 『大日本古文書』巻九 - 265頁
  48. ^ 『大日本古文書』巻十 - 596頁
  49. ^ 『大日本古文書』巻三 - 213頁
  50. ^ 『大日本古文書』巻十 - 634頁・640頁
  51. ^ 『大日本古文書』巻十 - 637頁
  52. ^ 『大日本古文書』巻十 - 556頁、巻三 - 3頁
  53. ^ 『大日本古文書』巻三 - 305頁
  54. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 227頁
  55. ^ 『大日本古文書』巻三 - 317頁
  56. ^ 『大日本古文書』巻二 - 341頁
  57. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 139頁
  58. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 173頁
  59. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 178頁
  60. ^ 『大日本古文書』巻九 - 378頁、巻廿五 - 5頁
  61. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 182頁から185頁、187頁から189頁
  62. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 228頁・229頁
  63. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 12頁・277頁・278頁
  64. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 283頁・286頁・292頁・298頁
  65. ^ 『大日本古文書』巻八 - 478頁
  66. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 157頁
  67. ^ 『大日本古文書』巻三 - 418頁、巻十一 - 363頁
  68. ^ 『大日本古文書』巻八 - 479頁
  69. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 10頁・158頁・364頁
  70. ^ 『大日本古文書』巻三 - 438頁
  71. ^ 『大日本古文書』巻三 - 486頁、巻九 - 266頁、巻十一 - 387頁
  72. ^ 『大日本古文書』巻十 - 128頁
  73. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 436頁・439頁・445頁
  74. ^ 『大日本古文書』巻三 - 474頁
  75. ^ 『大日本古文書』巻三 - 482頁
  76. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 21頁
  77. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 457頁
  78. ^ 『大日本古文書』巻十 - 600頁・601頁・607頁・608頁、巻十一 - 481頁
  79. ^ 『大日本古文書』巻三 - 509頁、巻十一 - 515頁・523頁、巻十二 - 27頁
  80. ^ 『大日本古文書』巻三 - 520頁・521頁
  81. ^ 『大日本古文書』巻十二 - 163頁
  82. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 507頁、巻十二 - 200頁
  83. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 5頁
  84. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 472頁
  85. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 162頁
  86. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 239頁
  87. ^ 『大日本古文書』巻三 - 543頁、巻十 -271頁、巻十一 - 392頁・544頁・550頁・552頁
  88. ^ 『大日本古文書』巻三 - 549頁・551頁、巻十一 - 389頁
  89. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 258頁
  90. ^ 『大日本古文書』巻三 - 555頁
  91. ^ 『大日本古文書』巻三 - 539頁、巻十一 - 389頁・390頁
  92. ^ 『大日本古文書』巻三 - 540頁、巻八 - 482頁、巻九 - 603頁、巻十一 - 468頁
  93. ^ 『大日本古文書』巻三 - 541頁、巻十四 - 516頁
  94. ^ 『大日本古文書』巻三 - 542頁、巻十一 - 425頁、巻十二 - 202頁
  95. ^ 『大日本古文書』巻十二 - 258頁
  96. ^ 『大日本古文書』巻十二 - 278頁・333頁
  97. ^ 『大日本古文書』巻十二 - 366頁
  98. ^ 『大日本古文書』巻三 - 564頁、巻十一 - 166頁から168頁・250頁
  99. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 552頁・555頁
  100. ^ 『大日本古文書』巻三 - 548頁・553頁・556頁・557頁、巻四 - 88頁、巻九 - 608、巻十二 - 266頁
  101. ^ 『大日本古文書』巻十 - 559頁
  102. ^ 『大日本古文書』巻三 - 594頁、巻十二 - 265頁
  103. ^ 『大日本古文書』巻十二 - 560頁
  104. ^ 『大日本古文書』巻三 - 639頁
  105. ^ 『大日本古文書』巻十三 - 49頁
  106. ^ 『大日本古文書』巻十三 - 27頁
  107. ^ 『大日本古文書』巻十三 - 72頁
  108. ^ 『大日本古文書』巻十四 - 42頁・187頁
  109. ^ 『大日本古文書』巻四 - 310頁
  110. ^ 『寧楽遺文』下巻730頁
  111. ^ 『大日本古文書』巻四 - 392頁
  112. ^ 『東南院文書』312頁
  113. ^ 『正倉院蔵東大寺開田図』
  114. ^ 『大日本古文書』巻十七 - 125頁
  115. ^ 『大日本古文書』巻五 - 659頁
  116. ^ 『大日本古文書』巻五 - 667頁
  117. ^ 『大日本古文書』巻五 - 668頁
  118. ^ 『大日本古文書』巻十七 - 103頁
  119. ^ 『続日本紀』称徳天皇、神護景雲3年12月11日条
  120. ^ 『続日本紀』称徳天皇、神護景雲4年7月25日条
  121. ^ 『大日本古文書』巻廿三 - 184頁
  122. ^ 『続日本紀』光仁天皇、宝亀7年3月3日条

参考文献

[編集]