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三好応岸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三好應岸から転送)
三好 応岸
三好 應岸
肖像写真。紋付を羽織り、煙管を持つ[1]
生誕 三好 又八郎
天保3年7月15日1832年8月12日
伊予国宇和郡本町(愛媛県宇和島市本町)
死没 1909年明治42年)8月2日
愛媛県北宇和郡
墓地 丸穂村金剛山
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
著名な実績 日本画
代表作 「宇和島・江戸図屏風」
流派 写生派、円山派
後援者 伊達宗徳
影響を受けた
芸術家
三好応山大西雪渓
影響を与えた
芸術家
静岸

三好 応岸(みよし おうがん、天保3年7月15日1832年8月12日) - 1909年明治42年)8月2日)は江戸時代後期・明治時代の画家。伊予国宇和島出身。三好応山の次男。

経歴

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天保3年(1832年)7月15日伊予国宇和郡本町(愛媛県宇和島市本町)に紺屋三好応山の次男として生まれた[1]。通称は又八郎[2]。幼少期から絵を好んで父に画業を学び[2]、兄が紺屋業を継ぐと、自身は分家して画業を本業とした[1]。父から「応」字を継いで応岸と号し[2]、また画舫楼の号を継承した[3]。豪商としての繋がりから宇和島藩伊達宗徳に厚遇を受け[1]、「月下の山犬」を称賛されて3度揮毫したという[2]

讃岐国那珂郡郡家村香川県丸亀市郡家町)の大西雪渓に絵を学んだ[4]。同地域の資料は応岸を同国三豊郡(同県三豊市)の人とするが、同郡に滞在歴があったかどうか不明[4]。また「徴山」に絵を学んだともされるが[5]、父応山やその師とされる土佐鉄山(不詳)の誤字か不明[3]。1882年(明治15年)第1回内国絵画共進会に「幽霊」「夜ノ浪」を出品した際には写生派、1884年(明治17年)第2回内国絵画共進会に「狼」「山水」を出品した際には円山派を称している[3]

1909年(明治42年)8月2日78歳で死去した[2]丸穂村金剛山に応山・応岸の墓があるという[6]。弟子に静岸がいる[7]

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所蔵 年代 落款 印章 備考
宇和島・江戸図屏風 紙本着色[8] 六曲一双[8] 各隻95.0x262.0[8] 愛媛県美術館[8] 明治後期[9] 「應岸」[10] 右隻に白文方印「畫舫漁夫」、左隻に同「画舫樓」[8][10] 右隻は元禄期の宇和島城搦手門・豊後橋・櫓、樺崎住吉神社等を南側から[11]、左隻は富士山を背景に江戸隅田川永代橋寛永寺大名屋敷木場行徳塩田等を海側から描く[12]。2014年(平成26年)3月収蔵[8]
七夕図 紙本着色[8] 一幅[8] 小品[8] 今治市法華寺[8] 「應岸」[10] 「應岸」[10]
鴛鴦図 紙本着色[9] 一幅[9] 今治市法華寺[9] 「應岸」[10] 「画舫樓」「應岸之印」[10]
虎図 絹本墨画淡彩[9] 一幅[9] 今治市法華寺[9] 「應岸」[10] 「畫舫」[10]
松鷹図 紙本墨画淡彩[9] 一幅[9] 今治市法華寺[9] 「應岸」[10] 「画舫樓」「應岸之印」[10]
石橋山大合戦 大絵馬[8] 鬼北町山神王神社[8] 1899年(明治32年)奉納[8] 「應岸」[10]
湊川合戦図屏風 柏原市立歴史資料館[13] 1891年(明治24年)?[13] 「六重之翁」[13]
「宇和島・江戸図屏風」右隻
「宇和島・江戸図屏風」左隻

脚注

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  1. ^ a b c d 梶岡 2014, p. 3.
  2. ^ a b c d e 兵頭 1915, p. 105.
  3. ^ a b c 梶岡 2014, p. 2.
  4. ^ a b 梶岡 2014, p. 4.
  5. ^ 農商務省 1884, p. 253.
  6. ^ 富永 1917, p. 48.
  7. ^ 愛媛県 1986.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 梶岡 2014, p. 1.
  9. ^ a b c d e f g h i j 梶岡 2014, p. 10.
  10. ^ a b c d e f g h i j k 梶岡 2014, p. 14.
  11. ^ 梶岡 2014, pp. 6–8.
  12. ^ 梶岡 2014, p. 8.
  13. ^ a b c やまげ (2016年10月25日). “柏原市立歴史資料館”. やまげのおでかけ暴走紀行. 2018年11月28日閲覧。

参考文献

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